2008/02/12

国技館の命名経緯

明治四十二年六月二日の開館式が間近に迫った五月二十九日に、板垣伯爵を委員長とする常設館委員会の会合が回向院大広間で行われた。主要議題は館名の決定であった。こんな間際になってもまだ館名が決まっていなかったのである。

板垣伯爵は角觝(すもう)尚武館を提案し、衆議に諮った。ところがこの案では決まらず、ほかの委員から尚武館、東京大角力尚武館、大相撲常設館尚武館、相撲館といった対案が出された。尚武館という案に対しては、ある委員から「相撲には必ずショウブ(勝負)があるのだから、いまさらショウブカン(尚武館)と呼ばなくてもよいだろう」という発言が出た。発音した時、尚武館は勝負館と聞き間違えられるという問題点を指摘したものだが、冗談半分で言ったのかもしれない。相撲館は、相撲を活動写真で見せる所のようだという理由で退けられた。結局まとまりが付かず、委員として参加していた協会年寄に一任することにして散会した。

当の協会年寄は早速協会役員を集めて館名について協議した。尾車文五郎検査役は国技館を提案した。この館名は少し前に作られていた一枚の初興業披露状の中にある「角力は日本の国技」からヒントを得たものであった。尾車検査役は検査役の中ではトップの友綱貞太郎(一年後に取締になった)に次ぐ地位にあり、物言いをてきぱきと処理することで有名であった。明治四十四年夏場所後に行われた取締改選のとき立候補したが、二十山重五郎検査役と争って敗れた。

初興業披露状とは、「大角力常設館完成」を表題、「初興業御披露」を副題とし、本文の後に発行者を示す「大角力協会・年寄力士行司一同」と、本文の作成者を示す「江見水陰筆記」を入れたものである。

江見水陰(水陰はペンネームで本名は忠功)は小説家であるとともに、自宅に土俵を作り、自らが勧進元となって文士相撲を催すほどの好角家であったから、初興業披露文の文章作成を任されたのであろう。

本文の核心部分は、「大角力常設館全く成り、来る五月初興業仕るに就いて、御披露申し上げます。(中略)。事新しく申し上ぐるも如何なれど抑も角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、相撲節会の盛事は、尚武の気を養い来たり。年々此議行われて、力士の面目ために一段の栄を加え来たりしも、中世廃れて、遺憾ながら今日に及んで居ります」であり、ここに「角力は日本の国技」があるわけである。

奈良時代に始まり1174年まで続いた、宮中定例儀式の相撲節会(せちえ)を「角力は日本の国技」の根拠としていることは文脈より明らかである。皇室との深い関わりから国技としたのである。国技館なる館名は一同の賛同が得られた。そして板垣伯爵の了承を得て正式決定の運びとなった。

板垣伯爵は六月二日の開館式で会館委員長として式辞を朗読したが、冒頭で国技館と命名したことについて触れている。そして、開館式が終わった後、この館名について次のようなコメントをしている。

国技館なんて云ひ悪(にく)い六(むず)かしい名を附けたのは誠に拙者の不行届きで今更栓なけれど、実は式辞言句中にある武育館とすれば、常設館の性質や目的も明判し、且、俚耳(りじ)にも入り易いのに惜しいことをした。(東京朝日新聞 明治四十二年六月四日)

館名決定を協会年寄に一任した手前、協会が決めてきた国技館を自動的に了承したものの、これは自分の不行届きであったと反省し、後の祭りであるが武育館にすればよかったと後悔しているわけである。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)