2008/12/14

あるカメラマンの死

「あんまり、こうマッチョにしないでねっていうか、こう、わかるだろう?マッチョっぽくされちゃうと、どうもさあ・・・・・・」

最初のインタビューを終えた夕暮れどき、南アフリカの写真家、ジョアオ・シルバは少し遠慮がちにそう言った。あまり、おどろおどろしく書いてほしくない、ということらしい。戦場を駆け回るカメラマンが、米国のピュリッツァー賞を受賞直後、自殺する。その背景をまとめた米国の雑誌『タイム』や、『ニューズウィーク』を彼は指している。

確かにどれも自殺したカメラマンの繊細さ、戦場報道でこわれていく心の軌跡を、あまりに「できすぎた物語」として描いている。

自殺した写真家の名はケビン・カーターという。ジョアオはその友人で、やはり南アフリカをベースに主に戦場の写真を撮るカメラマンだ。私がケビンの自殺の背景を調べ始めたのは、彼が撮影した「ハゲワシと少女」という写真がきっかけだった。スーダン南部で撮られ、一九九四年に米国のピュリッツァー賞を受けた写真だった。

私が初めてその写真を目にしたのは日本でだった。多分、新聞で目にしたのだと思う。そのときの微かな驚きと、少し眉を寄せいぶかるような気持ちになったのをよく覚えている。

砂漠からサバンナへと変わるブッシュ帯。手前に、やせ細った黒人の子がまるでイスラム教徒がモスクで祈るような姿勢で地面に突っ伏している。その奥、数メートルのところにハゲワシが羽をおさめ、何かを待っている。ハゲワシはよく見るとのんびりしているようにも見えるし、獲物に目を光らせているようにも思える。いや、特に目的もなくただ、そこにいるだけなのかもしれない。実際に何が起きていたのかはわからない。でも、写真を見た多くの人々ははっきりとしたメッセージをそこに感じとる。

「アフリカの戦場では子供たちがハゲワシの餌食になっている。世界にはこんなにも悲惨な生がある」

私の中にそんな言葉が浮かび、この写真を撮った人物は、そのとき、どんな様子だったのか、なぜ、こんな場面に出くわすことになったのかと、そのことに関心が向いた。

アフリカの原野に住んでいれば悲劇はあるだろう。だが、この写真にはそんな不慮の事態をとらえた「決定的瞬間」以上のものがあるように思えた。同じころ、ニュースで四国の少女が土佐犬に噛み殺されるという事件があった。それは、とても不幸な不慮の事故と言えるが、それ以上のはっきりとしたメッセージはない。なぜなら、現場が日本だからだ。だが、このハゲワシの前に突っ伏した少女は、アフリカでも特に肌の色が濃いスーダンの女の子だ。それだけで世界に配信される写真には、アフリカ、戦場というキーワードがついてまわり、すぐさま政治的な意味が加わる。

私がアフリカに暮らしてからもなおこの写真にこだわっていたのは、「アフリカのリアリズム」というものについて考え続けていたからだ。悲惨さの脇に普通の人々の日常がある。悲惨な風景の中にさえ、目を凝らせば、人の幸福を考えさせる瞬間がある。だから、アフリカを日本に伝える者として、悲劇のイメージばかりを送り出すことに、次第に抵抗を感じるようにもなっていた。でも、ケビン・カーターのあの写真にはそんな生半可な思いを打ち砕く衝撃力があった。

あの写真はどうやって生まれたのか。取材を始めたのはアフリカに来て二年が過ぎた九七年のことだった。

撮影の前になぜ少女を救おうとしなかったのか。写真をめぐる議論は主に米国の週刊誌メディアでふくらみ、ケビンはそんな批判にたえかねて自殺した、という風聞が南アフリカでも広がっていた。だが、人はそんな風にきれいに死ぬだろうかという疑問が私にはあった。そんなことをたずね歩き、たどりついたのが、ケビンをスーダンに連れていったもう一人の写真家、ジョアオ・シルバだった。

歯切れのいいジョアオの言葉は痛快だった。彼が多用する「クール(いかす)」という、やや気安い、子供っぽい英語表現も心地良かった。戦場が好きな写真家でありながら、男らしさなどかけらもなく、趣味の自動車レースやプラモデルづくり、テレビゲームに熱中するタイプだった。

 

一九九三年三月十一日、スーダン南部コンゴール州のアヨド村。ケビンが、目の前にいる少女とハゲワシのどちらにピントを合わせようかと迷っていたとき、ジョアオはそこから数百メートルのところにいた。

「時間は三十分しかない。だから、俺たちは走り回ってた。村々に食料を届ける国連機、オペレーション・ライフライン・スーダンっていうやつ、聞いたことあるだろ?それに乗れるっていうんで、俺はケビンを誘っていったんだ。あのころ、あいつ、もう生活が完全に破綻してて。アルバイトでやってた深夜のディスクジョッキーの仕事も、トークラジオの仕事も契約が取れなくて、離婚もしてて、まともに食えなくて、変な女につかまって、麻薬づけになってて。だから、『おい、ケビン、行くぞ、アフリカの真ん中、スーダンに行くぞ』って、引っ張っていったんだ。あいつ、質に入れてたから、手元にカメラもなかったんだ」

「国連機に乗って、平原みたいな、一応滑走路みたいなところに降りたんだんだ。職員が『三十分後に離陸する』っていうから、俺たちはもう必死に走り回った。絵はないか、絵はないかってね。お前はあっち、俺はこっち行くからって。俺? 俺はあのとき、ゲリラいるだろ?ゲリラ。連中が二つに割れたって聞いていたんで、でもはっきりとした証拠もないから、ゲリラ兵に会えないかなって思って、村っていうか、小屋だけの集落を見て回ったんだ」

「俺たちが降りて、ミーリーズ(食糧のトウモロコシ粉)を下ろし始めたら近くにあった避難民の小屋から女たちがわーっと一斉に飛行機に近づいてきた。まあ、普通の光景だから、適当に何枚か撮って。俺は、『兵隊、兵隊』って、ゲリラばかり探してた。ケビンはそのとき飛行機の近く、数十メートルのところにずっといたみたいだ」

ジョアオは初対面の相手にはいつもこうなんだろうか。時に立ち上がり、両手を広げてややオーバーな演技をしながらひとり語り続ける。それは、もしかしたら、照れくささや気恥ずかしさを隠す一つの防御反応かもしれない。

狭い仕事部屋の破れたソファの上を猫が時折、関心なさそうに行き来する。壁には友人の写真家が撮った南アフリカの内戦時の写真や、ポスターが無造作に張られ、書棚にはネガの入った小型の段ボール箱が山積みされている。本などない本棚にはつくりかけのホンダの大型バイクの模型が大事そうに飾られていた。

「あいつ、南アフリカ、ソウェト(ヨハネスブルグ南西の黒人居住区)のドンパチは知っているけど、飢餓の取材は初めてだから、ショックだったみたいで、しきりに飢餓の子を撮ってた。ショックっていうか、まあ、あいつは、何ていうかエキセントリックなとこ、あるから、ああいう光景に参りやすいじゃないかな、結構。俺とか、大丈夫だろ。見るものは見ると、さて、じゃあ、次どうしようかって。いちいち立ち止まって感傷にふけったりしないだろ。そんなの後ですりゃいいって。俺?俺はもう飢餓は何回も見ているから。あ、またかって感じ?はいはいってね。だけど、そりゃ撮るよ、一応は。ゲリラ撮れなかったときのための予備っていうのか。そうそう。えーと、この写真。あんた来るっていうから用意しといたんだ」

ジョアオが差し出したプリントにもやせ細った少女が写っていた。同じ少女か?一瞬そう思うほど、よく似ていた。この少女もやはり両手で目をふさぎ、それもまた、見ようによっては祈るような格好をしている。「三匹の子豚」の物語で最初にオオカミに吹き飛ばされてしまったような小屋が干し草の平原をバックに写っている。

「これは?」

私の興味深げな様子に満足したのか、ジョアオは嬉しそうに言葉を続ける。

「この子、ケビンの写真と同じ子って思うだろ。実は、違うんだ。ほら、見てみ。こっちの子は白いビーズの首飾りつけてるだろ。でも、俺の方の写真の子はつけてないだろ。これ違う子なんだよ。俺もやっぱり一応はケビンと同じような写真を撮ってたんだ。で、俺の写真?結局どこにも載らなかったな。いや、南アフリカの新聞に載ったかなあ。そのとき?だから、ゲリラ兵がいないから、まったくしょうがねえなあって思って、そしたら一応、飢餓の子も撮っておこうと思って、構えて、待って、動きが欲しいなっていろいろ、角度決めて、そしたら目をふさいで泣くような格好をしたから、カシャカシャカシャって何枚か撮って。
さあてと、兵隊いないかなってまた歩き出したんだ。そんなもんだろ。親?親はすぐそばで食糧もらうのにもう必死だよ。だから手がふさがってるから、子供をほんのちょっと、ポン、ポンとそこに置いて」

「ケビンが撮った子も同じ。母親がそばにいて、ポンと地面にちょっと子供を置いたんだ。そのとき、たまたま、神様がケビンに微笑んだんだ。撮ってたら、その子の後ろにハゲワシがすーっと降りてきたんだ、あいつの目の前に。あいつ?あの時、カメラ、借りてきたやつだから、180ミリレンズしか持ってなかったんだ。だから、そーっと、ハゲワシが逃げないように両方うまくピントが合うように移動して、10メートルくらい?そのくらいの距離から撮ったらしい。で、何枚か撮ったところで、ハゲワシは、またすーっと消えていったって」

「見てみろよ。おんなじような写真撮ってて、あいつの前にたまたまハゲワシが降りてきて、そんでもってポーンとピュリッツァー賞。俺の前には何も降りてこなくて、はい、普通のボツ写真。ま、そんなもんよ。戦場で撮っているとそうだろ。一瞬だよ、一瞬。ドンパチが始まって、たまたま道路一本隔てた死角にいたら、何も撮れなくて、たまたま、銃撃戦のちょうど真ん中の戦車の陰かなんかにいたら、すべて見渡せて、いい絵が何枚でも撮れる。そんで、ハイ、どんぴしゃっとピュリッツァー賞」

そばに母親がいて、子供をちょっと置いただけ。そんなたわいのない真相が私には意外だった。なぜなら、その少女は、あの原野の中に一人でたたずんでいたと勝手に思い込んでいたからだ。

「時間がないんでケビンのところに戻ったら、あいつ仰向けになって、煙草スパスパ吸って、空に向かってうわごと言ってんだよ。俺はその時点では、そんなすごい写真撮ったって知らないから、また、ケビンがおかしくなっているって思っただけだけど、あいつ、『アイヴ、ガッタイトゥ(撮った)、やったんだ、撮ったんだ、すごいの撮った、俺、撮ったんだ』なんて涙流さんばかりに興奮してて、またこいつがって思って『行くぞ、行くぞ』って言ったら、『家に帰って、娘(当時九歳)を抱きしめたい』なんて言うから、これはまともじゃないって思ったけど、こっちは写真をまだ見てないから、彼が本当のところどんな気持ちだったのか、そのときはわからなかった」

ナイロビに戻り写真を焼いてみて驚いた。

「こりゃ、すごい写真だって思って、すぐに『ニューヨーク・タイムズ』の知り合いに売り込んだんだ。そしたらなかなか載らなかったけど、何日かたって一面にでかく載ったんだ」

写真「ハゲワシと少女」は三月下旬の『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面にカラーで掲載された。撮影から十日あまりが過ぎていた。

絶賛と共に、「撮影など振り捨て、なぜ、真っ先に少女を助けなかったんだ」という批判が米『タイム』誌などを中心に沸き起こり、報道のモラルを問う論争に発展した。『ニューヨーク・タイムズ』はその後、異例のおことわりを掲載する結果になった。

「撮影者の報告では、ハゲワシは追い払われてから、少女は再び歩き始めるまで回復した」と。

ケビンはこうした批判に反論しなかったが、地元紙にこう答えている。

「ああいう現場に行ったこともない人間に個人的な体験を話してもしようがない」

「状況や暴力について陳腐な意見を聞くと、俺の脳はシャッターを下ろしてしまうんだ」

でもジョアオに言わせれば、本人はかなり気にしていたそうだ。

「『お前は良いことをしたんだ。あのすごい写真を撮って、それがロンドンのヒースロー空港の看板にでかでかと載って。義援金が集まって、スーダンに送られて。とにかくお前は正しいことをしたんだ』。そう言っても、あいつはまたしばらくたつと、話を蒸し返して、ひとり気にしていた。もともと繊細なんだ、あれは。だけど、俺に言わせりゃ、少し馬鹿げているよ、少女を救えだなんて。救えったって、すぐそばに母親がいるんだぜ。アフリカの女は怖いんだよ。下手に勝手に子供を抱き上げたりなんかしたら、何すんのって母親が大慌てで飛んできて、どやされるよ。手出しなんかできるかよ」

ケビンは女づき合いにだらしがなく、自堕落を気取っているところもあった。その半面、自信がなく過敏で、他人の視線を常に気にしている弱さもあった。アンゴラの内戦の徴兵を逃れた二十代のころは躁うつ病で通院し、二度も自殺未遂を起こしている。

アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アで、黒人居住区の戦闘写真で名をあげ始めた八九年八月、地元紙の写真コラムにこんな一文を残している。

「写真報道とは奇妙な商売だ。私は仕事の大半を劇的な場面探しに費やしている。そんな中、手っ取り早く売れるのは、紛争中の人間たち、ヒューマン/ドキュメント、そして暴力だ。その手の写真を見て大喜びする読者が多いからだ。じゃあ、なぜ撮るのかと聞かれればこう答えるしかない。私はただ、自分の写真が載るのを見たいだけだと」

彼はこのころから、センセーショナルな写真を撮ることに疑問を抱き始めている。興味深いのは最後の一文、彼の開き直ったような口ぶりだ。

「おれはただ、自分の写真が紙面に載ればいい、それだけだ」

あえてそう言い切ってしまうところに、彼のやや過剰な自意識がある。

九四年七月二十七日未明。ピュリッツァー賞受賞決定から三ヶ月、授賞式から一ヶ月もたたないその日、ケビンはヨハネスブルグ郊外サントンにある自宅近くの緑地公園に車を止め、愛用の薬物、マンドラクスを吸いながら、車内に排ガスを引き込み自殺した。遺書の冒頭には「パパとママ」と書かれ、その下に電話番号。その下に「親友たち」とあり、すでに死んだカメラマンの友人の名と、カッコでくくられた別れた妻の名と電話番号、そして「ジョアオ・シルバ」と彼の番号がある。その脇には小さな字で「言葉にできないほど彼(ジョアオ)が好きだ」と記されていた。

(『絵はがきにされた少年』 藤原章生 集英社 「第一章 あるカメラマンの死」から)



2008/12/07

ケビン・カーターさんの告白

「国連などの食糧配給センタ-から500メ-トル離れたところで一人の少女に出会った。こんな風にうずくまって(真似をして見せる)必死に立ち上がろうとしていた。その光景を見たあと、いったんはその場を離れたが、気になってもう一度引き返した。すると、うずくまった少女の近くにハゲワシがいて、その子に向かって近づいて行った。
その瞬間、フォト・ジャ-ナリストとしての本能が“写真を撮れ”と命じた。目の前の状況をとても強烈で象徴的な場面だと感じた。ス-ダンで見続けてきたもののなかで、最も衝撃的なシ-ンだと感じた。自分はプロになりきっていた。何枚かシャッタ-を切ってからもっといい写真を撮るのにハゲワシが翼を広げてくれないかと願った。15分から20分ひたすら待ったが、膝がしびれはじめ諦めた。起き上がると、急に怒りを覚え、ハゲワシを追い払った。少女は立ち上がり、国連の食糧配給センタ-の方へよろよろと歩きだした」
「この後、とてもすさんだ気持ちになり、複雑な感情が沸き起った。フォト・ジャ-ナリストとしてものすごい写真を撮影したと感じていた。この写真はきっと多くの人にインパクトを与えると確信した。写真を撮った瞬間はとても気持ちが高ぶっていたが、少女が歩き始めると、また、あんたんたる気持ちになった。私は祈りたいと思った。神様に話を聞いて欲しかった。このような場所から私を連れ出し、人生を変えてくれるようにと。木陰まで行き、泣き始めた。タバコをふかし、しばらく泣き続けていたことを告白しなくてはならない」

(NHK教育「メディアは今―人命か報道優先か・ピュリツアー賞・写真論争―」94・6・30放送)

参考:ネットジャーナル「Q」 第153回 再考「ハゲワシと少女」の写真(08・11・30記)



2008/11/30

法外の法

日本では、満場一致の決議さえ、その議決者をも完全に拘束するわけでもないし、国権の最高機関と定められた国会の法律でさえ、百パーセント国民に施行されるわけでもないから、厳守すれば必ず餓死する法律が出来ても、別に誰も異論はとなえない。法律を守った人間はニュースになるが、破った人間はもちろん話題にものぼらない。といって全日本が無法状態なのではない。ここに日本独自の「法外の法」があり、「満場一致の議決も法外の法を無視することを得ず」という断固たる不文律があるからである。従って裁判もそうであって「法」と「法外の法」との両方が勘案されて判決が下され、情状酌量、人間味あふれる名判決となる。

(『日本人とユダヤ人』イザヤ・ベンダサン)



2008/10/03

哲学者とは

こう言うと、読者の皆さんは驚かれるかも知れないが、哲学にとって、その結論(つまり思想)に賛成できるか否かは、実はどうでもよいことなのである。重要なことはむしろ、問題をその真髄において共有できるか否か、にある。優れた哲学者とは、すでに知られている問題に、新しい答えを出した人ではない。誰もが人生において突き当たる問題に、ある解答を与えた人ではない。これまで誰も、問題があることに気づかなかった領域に、実は問題があることを最初に発見し、最初にそれにこだわり続けた人なのである。このことはどんなに強調してもし過ぎることはない。なぜなら、すべての誤解は、哲学者の仕事を既成の問題に対する解答と見なすところから始まるからである。

(『ウィトゲンシュタイン入門』永井均著 ちくま新書 P9)



2008/05/06

「自由の新たな空間」より

しかし、経済不安以外に日々のマスーメディアによる情報も、問題を誤認させる危険を帯びているのではないか?自由の上にのしかかっているのは本当に現実の経済危機状況なのだろうか?あるいはむしろ、革新的な潜在力の集団的な受動化、意気喪失、方向感覚喪失、崩壊があり、そこに生じた社会的荒廃の諸結果から新たな“野生の資本主義”は好き勝手に利益を上げるにいたっているのではないか?第一、経済危機という言葉はこの十年来世界を、なによりもまず第三世界を脅かしている連鎖的なカタストロフの性格を示すには如何にも不充分である。また、経済状況のみに関わる諸現象にその用法を限るのは明らかに不当だ。数えきれぬほどの人々が飢餓の中に死に瀕し、数十億もの人々が年を追ってしだいに貧困と絶望の中に押し込められつつある現状を前に、ひとは穏やかにわれわれに説明してくれる。経済の問題です、この経済危機が終わらぬ限り状況の改善は期待できないでしょう!手のほどこしようもありません!まるで霰かホルテンス台風みたいに経済危機が天から降って来て大地を走り回っているかのような言いぐさだ!かの気象占師どもだけが――ときめく経済人どもだけが――この現状について語る言葉を持っているというわけだ。しかし実際、これほどに卑劣と馬鹿々々しさが共生している場所はない!というのも結局のところ、産業と経済の転換が ――それが世界規模のものであり、社会構成と生産手段の根底的な組み換えをはらんでいるとしても――これほどの泥沼状態をその償いとして要請する如何なる必然性があるというのか!いますぐにでも問題を考えるやり方を百八十度転倒する必要性があり、今すぐにでも再考し直さなければならぬということを改めてはっきりさせよう。政治こそが経済の上に立って全てを進行させているのだ。けっしてその逆ではない!現在の状況において、あらゆる細部で、政治こそが経済危機を作り出しているということを断定するのは成る程易しくはないにしても――というのも事実、例えば、経済的荒廃と生態系の厄災の間には、あるいは別の理念的オーダーだが、金融と石油市場の間には、誰もコントロールし得ないカタストロフィックな誘因、相互作用があるからだが――ともあれ政治が現在のひどく悪性の社会的結果の責任を免れるなどということはない。この経済危機からの出口は、あるいはお望みならこの暗黒の系譜からの出口は、政治と社会にこそあるのだ。そこから始めなければ人間は予測し難い内破に向けて進み続けることになろう。

(『自由の新たな空間―闘争機械 (ポストモダン叢書 (12)) (単行本)』フェリックス・ガタリ、トニ・ネグリ 丹生谷 貴志訳)



2008/04/22

生そのものの実情

死の瞬間はない。死は境界ではない。生の終わりは瞬間でも境界でもない。同様に、生の始まりは、瞬間でも境界でもない。起こっていることは、生と死の浸透、生への死の分散、死への生の分散である。これが末期の生の実情、そして、生そのものの実情である。だから、病人の生を肯定し養護することは、生そのものの肯定と擁護に繋がるのである。

(『病の哲学』小泉義之 ちくま新書 218頁)



カンギレムの健康と病気

健康、あるいは病気というと、私たちは大体、こんなイメージをもっている。健康診断で検査を受けると、血圧にしても、肝臓の状態を示すGOTやGPTにしても、血糖値にしても「基準値」というのがあって、それより低かったり、高かったりすると「あら?」ということになる。健康というのは、ある境界をもった域内におさまっていることで、その反対に病気というのは、その領域からはみ出してしまっていることだ。そんなふうに私たちは通常イメージしている。

ところが、カンギレムは、こういう私たちのイメージとはまったく逆とも思えるようなことを言う。「健康を特徴づけるものは、一時的に正常と定義されている規範をはみでる可能性であり、通常の規範に対する侵害を許容する可能性、または新しい場面で新しい規範を設ける可能性である」(「正常と病理」法政大学出版会、175頁)。つまり健康というのは、囲い込まれた領域のなかにおとなしく、あるいは行儀よく止まっていることではなくて、むしろ、その領域を自由にはみ出ることができることなんだ。あるいは、状況に応じて、通常とは異なる生の様式を自在にとれることなんだ。あるいは、規範に律儀に従うことではなくて、むしろ規範を壊したり、つくりなおしたりすることなんだ、というわけです。場合によっては食事を一回や二回とらなかったり、終電車に間に合わなければ歩いて家に帰ったり、そんな無茶ができること、それが健康なんだとカンギレムは言う。

その逆に、病気は、規範からの逸脱ではなくて、むしろ一つの規範に忠実でありすぎること、そこから逸脱したり、はみ出たりできないこととして定義される。「病気もまた生命の規範である。だがそれは、規範が有効な条件からずれるとき、別の規範に自らを変えることができず、どんあずれにも耐えられないという意味で、劣っている規範である」(同書、161頁)。カンギレムは、さらにこうも言う。「病人は、一つの規範しか受け入れることができないために、病人である」(同書、164頁)。生が一つの規範しか受け入れないほどに硬直化すること、それが病気だとカンギレムは言う。

(『病と健康のテクノロジー』市野川容孝・松原洋子対談 市野川容孝の語り)



2008/04/07

奇形の身体、病気の身体

捻じ曲がった身体がある。外からあてがわれたユークリッド座標系を基準にすると、有らぬ方向に延びる曲線に沿って、その体軸と四肢が捻れている身体である。外部観察者の眼で見ると。個体発生と形態形成の過程で間違いを生じてしまった異常で異様な身体である。アルマン・マリー・ルロウ『ミュータント』があげる事例から拾うと、結合性双生児の身体、無頭蓋症児の身体、内臓逆位者の身体、多指症者の身体などである。

しかし、観点を変えるなら、事態は全く違った相貌を帯びてくる。捻じ曲がった身体は、個体発生と形態形成の過程では正しく然るべき仕方で捻じ曲がった身体である。ドゥルーズの用語を導入して言いかえる。固体化の場、前固体化で非人称的な場、超越論的な場から見るなら、すなわち、個体発生と形態形式のトポロジカルな空間に内在的な座標系を基準とするなら、正しい線たる直線に沿ってその体軸と四肢が伸張した身体である。だからこそ、ミュータントの身体は、いかに短い期間であっても、生きられうるものになるし、現に生きられるものになっている。

では、そんなトポロジカルな空間は、どこに存在するのであろうか。当の身体の内部のどこに存在するのであろうか。あるいは、当の身体の外部のどこに存在するのであろうか。その空間の存在性については、理念的で潜在的でリアルな多様体であると幾度となく語られてきた。それはその通りである。また、理念的で潜在的でリアルな多様体は、現実的存在者と本性的に区別されるとこれまた幾度も語られてきた。それもその通りである。だから、その空間を現実的存在者において探し出そうとする問いの立て方は、あたかも超越論的な場を経験的なものにおいて探し出そうとしたり前個体的な場を既に固体化された存在者化したりするような、哲学的な常識を全く弁えない馬鹿げたやり方であると語られてもきた。しかし、ドゥルーズとガタリは、まさにその馬鹿げたやり方を追求したのである。何故か。ドゥルーズとガタリは、講壇学者の立場にではなく、多様で多彩な身体を生きて病んで死んでゆく民衆の立場に立っていたからである。

生まれながらの捻じ曲がった身体が、事故や病気のために、さらに捻じ曲げられることがある。それもまたトポロジカルな空間に内在的な座標系からするなら正しく然るべき仕方で起こったことが実現したことなのだが、そうではあるが、決定的に違うのは、いまや身体は生き難いものになるということである。そんな身体は、苦痛や不調や失調などのさまざまな症候を発する。それら症候は現に経験され現に生きられる。とするなら、病人の身体は、超越論的な場を非常に通り過ぎたはずのトポロジカルな出来事を、症候を介して感覚し経験していることにならないであろうか。とするなら、そのとき症候の経験は超越論的な場のシーニュになる。では、そのシーニュの意味は何であろうか。そのシーニュが指し示す方向は、どこに向かうのだろうか。ドゥルーズとガタリは、その方向を「来るべき民衆」と呼ぶことになるだろう。

(『来るべき民衆-科学と芸術のポテンシャル』 小泉義之)



2008/03/17

動物の愛護及び管理に関する法律ー動物を殺す場合の方法

第4章 雑則

(動物を殺す場合の方法)

第23条 動物を殺さなければならない場合には、できる限りその動物に苦痛を与えない方法によつてしなければならない。

2 環境大臣は、関係行政機関の長と協議して、前項の方法に関し必要な事項を定めることができる。

(動物を科学上の利用に供する場合の方法及び事後措置)

第24条 動物を教育、試験研究又は生物学的製剤の製造の用その他の科学上の利用に供する場合には、その利用の必要な限度において、できる限りその動物に苦痛を与えない方法によつてしなければならない。

2 動物が科学上の利用に供された後において回復の見込みのない状態に陥つている場合には、その科学上の利用に供した者は、直ちに、できる限り苦痛を与えない方法によつてその動物を処分しなければならない。

3 環境大臣は、関係行政機関の長と協議して、第1項の方法及び前項の措置に関しよるべき基準を定めることができる。

 

昭和48年10月1日
法律第105号
一部改正 昭和58年12月2日
平成11年7月16日
平成11年12月22日



2008/02/28

寺田寅彦 煙草の味

煙草の「味」とは云うもの、これは明らかに純粋な味覚でもなく、そうかと云って普通の嗅覚でもない。舌や口蓋や鼻腔粘膜などよりももっと奥の方の咽喉の感覚で謂わば煙覚とでも名づくべきもののような気がする。そうするとこれは普通にいわゆる五官の外の第六官に数えるべきものかもしれない。してみると煙草をのまない人はのむ人に比べて一官分だけの感覚を棄権している訳で、眼の明いているのに目隠しをしているようなことになるのかもしれない。
それはとにかく煙草をのまぬ人は喫煙者に同情がないということだけはたしかである。図書室などで喫煙を禁じるのは、喫煙家にとっては読書を禁じられると同等の効果を生じる。
先年胃をわずらった時に医者から煙草を止めた方がいいと云われた。「煙草も吸わないで生きていたってつまらないから止さない」と云ったら、「乱暴なことを云う男だ」と云って笑われた。もしあの時に煙草を止めていたら胃の方はたしかによくなったかもしれないが、その代りにとうに死んでしまったかもしれないという気がする。何故だか理由は分らないが唯そんな気がするのである。

(『喫煙四十年』 寺田寅彦 昭和九年八月『中央公論』)



織田作之助『中毒』

私は昔も今も夢のない人間だ。「生きた、恋した、書いた」というスタンダールの生き方にあこがれながら、青春を喪失した私は、「われわれは軽佻か倦怠かのどちらか一方に陥ることなくして、その一方を免れることは出来ない」
というジンメルの言葉に、ついぞ覚えぬ強い共感を抱きながら、軽佻な表情のまま倦怠しているのである。前途に横たわる夢や理想の実現のために、寝床を這い出して行く代りに、寝床の中で煙草をくゆらしながら、不景気な顔をして、無味乾燥な、発展性のない自分の人生について、とりとめのない考えに耽っているのである。
そして、それが私にとって楽しいわけでもなんでもないのだ。そんなに煙草がうまいわけでもない。しかし、私はいつまでも寝床の中で吸っている。中毒といってしまえば、一番わかりやすいが一つにはもし、私にも生きるべき倦怠の人生があるとすれば、私は煙草を吸うことによってのみ、その倦怠の人生を生きているのかも知れない。私が煙草を吸わなくなれば、もう私には生きるべき人生もない。煙草を吸わなくなれば! というのは私にとっては絶対に禁煙を意味しない。私は一生禁煙しようと思わぬし、思っても実行出来る私ではない。煙草が吸えなくなれば、私は何をしていいのだろうか。恐らく気が狂うか全くの虚脱状態になってしまうだろう。

(『中毒』織田作之助 1946(昭和21)年10月)



2008/02/13

投げ纏頭の禁止

風紀を正す改革のもと、力士の芸人根性は真っ先に槍玉に挙げられた。

投げ纏頭(なげはな、投げ祝儀、投げ花とも書く)は芸人根性の最たる象徴であった。国技館開館直前頃の投げ纏頭の実態についてまず述べることにする。

贔屓にしている力士が勝ったら、祝い金を贈ろうと目論んでいた人は、その力士の方に軍配が上がると、土俵に向けて自分の帽子や羽織を投げ込んだ。力士はそれを拾い上げ、支度部屋に持ち帰った。当の贔屓は帰りに支度部屋の力士を訪ね、その物と交換にお金を与えた。稀であるが、投げ込まれた物を付け人がすぐに好角家のところに持って行き、それと交換にお金を貰うこともあった。

このような現金贈与が投げ纏頭と呼ばれるものであった。投げ込んだ物が山のようになることも稀ではなかった。

投げ纏頭は国技館開館の場所から禁止された。実は、禁止令は開館以前の数場所前からすでに出されていた。しかし、守られていなかったのだ。だから、開館を機に禁止が徹底されたというのが実情である。

(中略)

投げ纏頭を拾う力士には、投げ銭を拾う大道芸人を連想させるものがあり、このため投げ纏頭が禁止となったのだろう。

(中略)

投げ纏頭で力士が貰う金額のデータはその性格上乏しいが、わずかながら次のようなものがある。元大関荒岩の花篭年寄は現役時代に自信が貰ったときの話として、横綱常陸山に勝ったとき五、六百円貰ったと語っている(東京日日新聞 明治四十四年六月十一日)。また同紙で、海山が常陸山を敗ったときは三千円位になっただろうと、関脇伊勢ノ濱が語っている。

こういう話の常として、貰った最高の金額が引き合いに出されていると見てよいが、関取が貰う本場所興業での報酬(歩方金と給金)が横綱の常陸山でさえ二百円足らずだったことを考えると、投げ纏頭の金額が大金だったことは確かだ。

投げ纏頭を貰った力士は普通、それを全部弟子たちに与えた。当の力士には贔屓よりお座敷が掛かり、お座敷がいくつも重なったときは、祝儀が五、六百円から千円にもなったという。こんな祝儀があったから投げ纏頭の金を惜しみなく弟子に与えることができた。この祝儀は国技館開館後も無くならなかった。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)



プレイス・リテラシー

――場所に関するリテラシー、エコロジカルなリテラシー、環境に関するリテラシーを持たねばならな
くなってきた……。

ときどき冗談で他のひとをテストしたりすることがありますよ。町や通りの名前を用いないであなたの
家まで人を案内しなさい、というテストです。自然の特徴だけを使って説明するのです。

――樹木や草の名前を知らないといけないのですか。

いや、それよりもクリークや丘の名前を知らないといけない。たとえば町や道路の名前を一度も言わな
いで、友人を私の家まで案内するにはどのように説明すればいいのだろうか。このようなことは、自分
のすんでいる場所をよく知っていないとできませんね。

――このようなプレイス・リテラシー、あるいはエコロジカル・リテラシーは徐々にアメリカ社会に浸
透しつつあると感じますか。

そういうことが始まってきていると思います。アカデミックなレベルでは、私はよくこう言う。つまり、
マイノリティーは周縁化されていたが発言権を獲得した。女性も周縁化されてきたが、ついには発言権を獲得するようになった。さて、いまは自然が発言権を獲得する番だ、いつまでも周縁化するわけにはいかないはずだ、それに人間はいつまでも自然の声の抑圧者でいるわけにはいかない。そして人間はいつまでも場所を抑圧しないで、場所の声に耳を傾けるべきだーー。まあ、こんなことを言ったりするわけですが、耳の痛い話であるかも知れませんね(笑)。

――でもこのような議論から逃れることはもう難しくなってきましたね。

彼らが受けたリベラルな教育のパラダイムからすればこのような視点を無視することはできないはずです。教育のある人は文化的な事柄を知っているのと同じ程度に自然を知るべきだと思いますね。

――場所の文学は新しい文学だと思いますが、読者がそこから学ぶものがあるとすればそれはどのようなものでしょうか。

いくつかの視点から考えることができると思います。たとえば、同じ場所に住んでいる読者には、その
場所に関するさらに深い洞察をもたらすでしょうね。読者の場所の感覚がさらに深まるはずです。また、ちょうど人間の関係を描く小説は読者の人間関係に対する理解を深めるように、場所についても同様のことが言えます。もちろん、場所の文学は人間をも巻き込んだもので、場所だけを描くものではない。それはノンヒューマンの世界と人間との複雑な関係を示唆するものです。だから、21世紀の世界で我々がやるべきことは、人間はどこにいても自然のコンテクストの中で生きているということ、人間は場所を喪失し場所から引き離された存在ではなく、自然の中に生きているということを示すことだと思います。現代人は自らは他の存在に依拠しないで自立して存在しているという幻想を抱いていて、そこから世界の破壊が始まった。場所の文学は倫理的にも、政治的にも、このような幻想を断ち切る契機になるものだと思います。
都市の工業化された世界でも我々は場所に住んでいるのです。この世界は我々だけのものではなく、他の生物たちのための世界でもあるということを理解しなければならない。だから、バイリージョナリズ
ムの思想は、究極的には我々はすべてがこの地球という惑星の住人であり、地球はひとつの流域だと主張するのです。私たちはだれもがひとつの生態系の中に生きているのです。


Gary Snyder
1930年5月8日、サンフランシシコ生まれ。オレゴン、ワシントンの森林地帯で少年時代を過ごす。
リード大学で言語学、人類学を専攻。同校卒業後、きこり、山林監視員、水夫などに従事する一方、カ
リフォルニア大学バークレー校で、中国古典を学ぶ。55年、ギンズバーグ、ケルアックらと出会い、仏
教やヨガといった東洋思想を伝える。56年、来日。通算八年間、京都の大徳寺などで臨済禅の修業を体験。禅のほかにヒンドゥー教、真言密教、アメリカ・インデアンの神話などに造詣が深い。
59年、最初の詩集『Riprap』を発表。75年に『亀の島』でピューリッツアー賞を受賞。97年、ボリンゲ
ン賞。98年、仏教伝道文化賞。現代アメリカを代表する詩人。

(「Hotwired Japan」 1998年9月1日 から引用)



2008/02/12

相撲が唯一の国技に

国技なる言葉が初めて使用されたのは、江戸時代の化政期に、隆盛した囲碁に対して使用された時であったという。明治時代に入ってからの使用は、「国技館」が初めてだった。

「国技館」は響きのよい名称と受けとめられ、各地に国技館が開館するに及び、「相撲は国技」の認識が出始め、これを一歩進めた「相撲が唯一の国技」の認識も出てきた。

このようになった大本の原因は、皇室との深い関わりを国技の条件としたことにあったわけだが、このような関わりを持っていたのは相撲だけというわけでもなく、剣道もそうだった。

当時の皇室は剣道(撃剣と鎗術から成る)を重視し明治政府が明治十五年に官吏に文武を学ばせるために設立し、その後、皇宮警察の武術鍛錬場となった皇居内の済寧館(さいねいかん)で、、剣道の鍛錬を日常的に行っていた。明治四十五年五月一日には同所で、百四十組の試合から成る大々的な剣道台覧が開催されたこともあった。

この関わりは、相撲の千年も前の関わりと違って、現行の関わりであるから、剣道こそ第一の国技としてもよかったのである。しかし、この認識はまったくといってよいほど広まらなかった。原因が「相撲が唯一の国技」の認識の浸透にあったことは言うまでもない。

昭和九年五月四、五日の両日、済寧館で皇太子ご誕生奉祝の「展覧武道大会」が開催され、各府県から選抜された百二名の選手による剣道と柔道の試合が行われたが、この大会名が示すように、この頃すでに、武道と言えば剣道と柔道を指すようになっていた。明治時代は武道の範疇に入っていた相撲が武道から外されたのである。

相撲と同じく、剣道と柔道の殿堂を作りたいと考えた国会議員剣道連盟と同柔道連盟の働きかけにより、昭和三十九年、国会近くにその殿堂が完成した。そして、日本武道館と命名された。当然の館名だった。

相撲が武道から除外されたことは、相撲が唯一の国技とされて剣道や柔道より一段高い位置づけになったことによる、とも見ることができる。

同類のものが各国に発生した相撲と違って、日本にだけ発生した柔道はいまや世界的に普及してオリンピック種目にもなったが、この柔道に対して当然、日本の国技という声が出てもよさそうである。しかし、出ない。この背景は、「相撲が唯一の国技」の認識の定着だろう。このような結果をもたらした国技館なる名称は傑作であったといえる。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)



国技館の命名経緯

明治四十二年六月二日の開館式が間近に迫った五月二十九日に、板垣伯爵を委員長とする常設館委員会の会合が回向院大広間で行われた。主要議題は館名の決定であった。こんな間際になってもまだ館名が決まっていなかったのである。

板垣伯爵は角觝(すもう)尚武館を提案し、衆議に諮った。ところがこの案では決まらず、ほかの委員から尚武館、東京大角力尚武館、大相撲常設館尚武館、相撲館といった対案が出された。尚武館という案に対しては、ある委員から「相撲には必ずショウブ(勝負)があるのだから、いまさらショウブカン(尚武館)と呼ばなくてもよいだろう」という発言が出た。発音した時、尚武館は勝負館と聞き間違えられるという問題点を指摘したものだが、冗談半分で言ったのかもしれない。相撲館は、相撲を活動写真で見せる所のようだという理由で退けられた。結局まとまりが付かず、委員として参加していた協会年寄に一任することにして散会した。

当の協会年寄は早速協会役員を集めて館名について協議した。尾車文五郎検査役は国技館を提案した。この館名は少し前に作られていた一枚の初興業披露状の中にある「角力は日本の国技」からヒントを得たものであった。尾車検査役は検査役の中ではトップの友綱貞太郎(一年後に取締になった)に次ぐ地位にあり、物言いをてきぱきと処理することで有名であった。明治四十四年夏場所後に行われた取締改選のとき立候補したが、二十山重五郎検査役と争って敗れた。

初興業披露状とは、「大角力常設館完成」を表題、「初興業御披露」を副題とし、本文の後に発行者を示す「大角力協会・年寄力士行司一同」と、本文の作成者を示す「江見水陰筆記」を入れたものである。

江見水陰(水陰はペンネームで本名は忠功)は小説家であるとともに、自宅に土俵を作り、自らが勧進元となって文士相撲を催すほどの好角家であったから、初興業披露文の文章作成を任されたのであろう。

本文の核心部分は、「大角力常設館全く成り、来る五月初興業仕るに就いて、御披露申し上げます。(中略)。事新しく申し上ぐるも如何なれど抑も角力は日本の国技、歴代の朝廷之を奨励せられ、相撲節会の盛事は、尚武の気を養い来たり。年々此議行われて、力士の面目ために一段の栄を加え来たりしも、中世廃れて、遺憾ながら今日に及んで居ります」であり、ここに「角力は日本の国技」があるわけである。

奈良時代に始まり1174年まで続いた、宮中定例儀式の相撲節会(せちえ)を「角力は日本の国技」の根拠としていることは文脈より明らかである。皇室との深い関わりから国技としたのである。国技館なる館名は一同の賛同が得られた。そして板垣伯爵の了承を得て正式決定の運びとなった。

板垣伯爵は六月二日の開館式で会館委員長として式辞を朗読したが、冒頭で国技館と命名したことについて触れている。そして、開館式が終わった後、この館名について次のようなコメントをしている。

国技館なんて云ひ悪(にく)い六(むず)かしい名を附けたのは誠に拙者の不行届きで今更栓なけれど、実は式辞言句中にある武育館とすれば、常設館の性質や目的も明判し、且、俚耳(りじ)にも入り易いのに惜しいことをした。(東京朝日新聞 明治四十二年六月四日)

館名決定を協会年寄に一任した手前、協会が決めてきた国技館を自動的に了承したものの、これは自分の不行届きであったと反省し、後の祭りであるが武育館にすればよかったと後悔しているわけである。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)



国技館設立の目的

上記談話の中には、次のような注目すべき部分も入っている。

常設館の設立と同時に相撲の改革を行ふことにした。一体昔の力士は一種の侠気がが有って義の為には身命を抛(なげう)って盡くしたものだが、世道人心が退廃し、人情が段々と軽薄になったとともに力士も一種の芸人根性を出して漸く昔の俤を失うようになって来た。之れは一般識者の夙に憂えて居る所である。処で今回此の機会を幸いに大に力士の風紀を正し、併せて従来の慣例中新時代の今日に適しない事は之を改めることにした。茲(ここ)に其の一、二の例を挙げていふ。力士の養老方法を設くる事や優勝旗を出して力士を奨励する事などで、是等は確に相撲道に一大光明を与えたものであると思う。

国技館設立と合わせて、芸人根性になっている力士を叩き直し、諸制度を新時代に相応しいものにし、こうして相撲道の改革をしたと言っている。国技館設立を相撲道の改革の好機と捉えたのである。

ここで相撲道とは、土俵のルール、力士が取組みを行う際のルール、行司と勝負検査役が判定を下す際のルール、団体戦のルール、報酬のルールなど、プロスポーツとしての相撲に当然要求される諸ルールのほかに、行司や力士の服装や番付方法、相撲関係者や観客のマナーに関するルールなどから成るものとしてよい。

上記の二つの話から国技館設立の目的が何であったかを考えてみると、外国人が見に来ても恥ずかしくない立派な相撲場を作ることが第一の目的(主の目的)であり、相撲道の改革が第二の目的(従の目的)であったとすることができる。なお、相撲場の改革という表現を使えば、立派な相撲場を作ることは相撲場の改革だった。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)

補足:「上記談話の中には・・・」、上記談話とは、「国技館開館前日発行の東京日日新聞明治四十二年六月二日に、「相撲と国技館」という見出しで、板垣伯爵の常設館設立の委員長としの立場としての談話記事」のこと。



2008/02/11

板垣退助 「相撲と国技館」

国技館開館前日発行の東京日日新聞明治四十二年六月二日に、「相撲と国技館」という見出しで、板垣伯爵の常設館設立の委員長としの立場としての談話記事が載っており、この中には以下のような国技館設立の目的を明らかにした部分がある。なお、国技館と常設館の言葉が入り交じっており、この点に注意して読む必要がある。

国技館の設立は時勢の要求に応じて出来たものである。維新前、未だ外国と交通が無かった時は兎もかく、今日の如く欧米諸国から貴賓が来るようになる、随て我国固有の相撲が海外人に見られるようになっては、如何にしても常設館が無くては不可ない。茲に於て、古来嘗て其の例の無い常設館を建てることになったのである。

仮小屋(掛け小屋)が粗末な相撲場であることを暗黙の前提として、こんなところで欧米の相撲を見てもらうのは大変恥ずかしい、だから国技館を建てることになったと言っているわけである。明治の初めでは、外国人に野蛮だと思われたくないと、裸体を禁止し、これが引いては相撲禁止の風潮を生むことにつながったことは第一章で述べたが、今度も外国人を強く意識したのである。明治時代の日本人は外国人の目をひどく気にしたのである。

(『相撲、国技となる』 大修館書店 風見明)



2008/02/07

『良心の領界』 序 「若い読者へのアドバイス」

若い読者へのアドバイス…
(これは、ずっと自分自身に言いきかせているアドバイスでもある)

人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人はつねに成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受けとめること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
検閲を警戒すること。しかし忘れないこと——社会においても個々人の生活においてももっとも強力で深層にひそむ検閲は、自己検閲です。

本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。

言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。

言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。たとえば、「戦争」というような言葉。

自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと。自分についてはまったく、または、少なくとももてる時間のうち半分は、考えないこと。

動き回ってください。旅をすること。しばらくのあいだ、よその国に住むこと。けっして旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋めあわせをしてくれます。たとえば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。

この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基礎になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さなかたちではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。

暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。
少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を持たず、冷蔵庫と電話のある住居をもたないでこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。

自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。ほかの諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。

恐れないことは難しいことです。ならば、いまよりは恐れを軽減すること。 自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。

他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません——女性の場合は、いまも今後も一生をつうじてそういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。

傾注すること。注意を向ける、それがすべての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分のなかに取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、みずからの生を狭めてはなりません。 傾注は生命力です。それはあなたと他者とをつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。

良心の領界を守ってください……。

2004年2月

スーザン・ソンタグ


『良心の領界』 スーザン ソンタグ (著)、木幡 和枝 (翻訳) (NTT出版)



2008/01/15

「自由な主体」で有らねばならない、という極めて”不自由”な状態

精神分析的な視点からの近代家族史研究家であるエリ・ザレツキーは、「自己決定」を特徴とする近代的「主体性」は。実は西欧人の
「気のみじかさshort-temperedness」の現れだ、という面白い指摘をしている。つまり、人間は様々な状況の中で、
外から与えられる刺激に対してそれなりに反応しているわけだが、刺激と反応の間の時間的間隔が短ければ主体的に「決断」しているように見え、
長ければ主体性がなくてぐずぐずしているように見えるわけである。実際にその人物の「内面」でどのような判断のプロセスがあったかは「外」
からは直接知ることはできないので、周りの人々は、「(他者からの介入を受けることなく)早く判断に至った」という外見だけを頼りに、
その人物の「主体性」を事後的に再構成することになるわけである。その意味で、「主体性」とは「気短さ」に対して後から
(エクリチュール的に)取って付けられた名称である、ということになる。


これは、我々が漠然と「主体性」と呼んでいるものの正体を極めて巧みに言い当てている説明だと言えよう。先に述べたように、「自己」
をめぐる諸関係性のネットワークを視野に入れ、「決断」の際の選択肢によって、それらの関係性がどう変化するかシミュレーションしていたら、
なかなか「自分だけで」決めるということはできない。むしろ自分で決められる部分はごく少ないことが分かってくるはずである。
ザレツキーは筆者に対しこの問題を、「安楽死」をめぐる臨床的な問題に即して説明してくれた。安楽死するか否かを、「もっと生きたいか、
もう死にたいか」という気分だけで決定する人は、現実にはほとんどいないという。周りの人たちが、自分が生き続けることについてどう考え、
死ぬことについてどう考えるか、様々なやり取りを通して顔色をうかがい、自分の「状況」をそれなりに把握したうえで、
「自分が何を望んでいるのか」を知るに至る、というのである。「他者」を「鏡」にしないと、「自己」を最終的に知ることはできないのである。


しかしながら、そうした「自己」を取り巻く関係性についての複雑な思考の流れは、
回転効率を重視する資本主義的な生産体制に貫かれている「近代」においては、軽視されがちである。むしろ、邪魔である。迅速に方針を決めて、
生産サイクルをできる限り速くし、生産物(商品)を交換しなければ、資本主義体制の中で、生産・交換「主体」として生き残ることはできない。
近代の貨幣経済は、それぞれの自己を形成している種々の文脈を捨象して、「物」にラベリングされる客観化された「価値」だけを基準とする
「交換」形態を発展させてきた。相手とどういう関係にあるのか、また、これから行われる「交換」
によってそれがどう変わるのかといったことは一切考慮せず、「物」の「価値」に合致する「貨幣」を持っているか否かで、「交換」
の成否が決まる。「交換」が終わるごとに、関係性はいったん終了する。”余計なこと”についていつまでもくよくよ考えないで、
スムーズに交換し続けられるのが「主体」である。


近代的な「主体性」は、そのように気短に短縮された関係性の中で、姿を現してくる。こうした「主体」は、建前上は、他者の影響から”
自由に”自己決定する能力があることになっている。しかし、その背景を考えれば、むしろ、「他者との関係性についていちいち考えないで、
さっさと”自己決定”するよう」強制されていると言える。言わば、市場における効率性の原理に従って。「主体」
であることを強いられているのである。我々は、「自由な主体」で有らねばならない、という極めて”不自由”な状態に置かれているのである。


(『「不自由」論-「何でも自己決定」の限定』 仲正昌樹 ちくま新書)



効率性を重視する「新自由主義」の経済思想と、「自己決定」論とは親和性がある

「決定」するに先立って、いちいち「自己」を再想像していれば時間はかかる。特に、「医師と患者」、「教師と生徒」、
「弁護士と依頼人」のような、暫定的な契約に基づく関係性ではそれほど時間をかけることはできない。時間をかければ経済的効率が悪いので、
前者の側から後者の側に対して、「早く自己決定するように」という圧力がかかることが多い。
専門的な経験の豊富な前者が後者になり代わってその利益を代行する形で決定することを、一般的に「パターナリズム(paternalism:
温情的干渉主義)」と言うが、様々な文脈で「説明責任accountability」が声高に叫ばれている現状では、後者に「責任」
のほとんどを専門的知識を当人に正確に提供しさえすれば専門家としての「責任」を果たしたことになる「自己決定」論の方が、
業務を加速することができる。効率性を重視する「新自由主義」の経済思想と、「自己決定」論とは親和性があるのである。


無論、当人が納得しているのであれば、極端な「パターナリズム」か、極端な「自己決定」のいずれかの”極”に振れてしまうような”
自己決定”がなされるのも致し方ないが、当人が「自己」を取り巻く「状況」を十分把握しないまま、形式的に「責任」
の帰属主体が決まってしまうことが多々ある。もう一度、医者と患者の関係で言えば、
難病の治療に際して新薬や新療法を用いる可能性があるような場合、医者の方がなるべく簡単で、「自己」変容がさほど伴わない(かの)ような
「問題設定」にしてしまうことが多々ある。端的に言えば、患者があまり事態を飲み込まないうちに、「臨床試験」(人体実験)を受けるという”
自己決定”をするよう促すケースである。


(『「不自由」論-「何でも自己決定」の限定』 仲正昌樹 ちくま新書)



2008/01/03

『翻訳と日本の近代』 あとがきから

徳川時代の文化の大きな部分(主として知的・思想的な領域での大きな部分)は、翻訳文化であった。いわゆる「読み下し漢文」は、
狙徠も指摘したように中国語文献(主として古典)の翻訳であり、その語彙や表現法を採り入れて消化した日本語を媒介とする文化-
すなわち徳川時代の儒者の文化の全体が、その意味での翻訳文化である。その経験が明治の西洋語文献からの大がかりな翻訳を助けたのであり、
近代日本を作りだした、ということができる。


翻訳文化は必ずしも独創を排除しない。徳川時代の文化の独創性は、「読み下し漢文」に依るところが少ない浄瑠璃や俳諧ばかりでなく、
漢文の概念を駆使しての、儒者の思想的な仕事にもある。日本の学者は必ずしも同時代の中国の後を追ったのではなかった。
明治以後の文化についても、少なくともある程度までは、同じことが言えるだろう。


翻訳文化はまたその国の文化的自立を脅かすものではない。むしろ逆に文化的自立を強化する面を含む。
翻訳は外国の概念や思想の単なる受容ではなく、幸いにして、または不幸にして、常に外来文化の自国の伝統による変容だからである。
外来の思想は、必ずしも知識層と大衆との間の溝を、長期にわたって拡げるようには作用しない。そのことを明治初期の翻訳者たちは-
少なくとも一部は-あきらかに意識していた。もし文化的創造や革新的な思想が、知識人と大衆との深い接触を通じて成り立つものとすれば、
翻訳文化は創造力を刺戟しても抑えはしないはずである。


(『翻訳と日本の近代』 岩波新書 加藤周一)



2008/01/01

重訳について

質問者G:先程からテキストが基本だということを再三おっしゃられていますけれども、私は亡命文学を研究しておりまして、あのう、重訳っていうんでしょうか、母国語から違う語に訳されて、それから日本語になっているものが非常に多いことに気づきまして、そこに面白みを感じて勉強を始めたということがあるんですけれども、重訳では母国語が持っている小説の質感などがだいぶ異なってしまう、訳された外国語のところで変わってしまっている部分が少しあると思うんですね。それが、さらに日本語に訳されるときにまた変わってしまって、母国語、作者が書いたもとのものとはかなり違ってしまったというのをずいぶん見たことがあるんです。そういう部分にちょっと疑問を持ったんですけれども、重訳ということに関して、テキストに重きを置くという意味で、いかがでしょうか。

村上(春樹):僕は実を言いますと、重訳ってわりに好きなんですよね。僕はちょっと変なのが好きだから、重訳とか、映画のノベライゼーションとか、興味あります。だから僕の場合はいささか偏見が入っちゃっているんだけど、いまおっしゃったような問題はこれから、グローバライゼーションということもあって、ものすごく増えてくると思うんです。たとえば僕の小説はノルウェー語に四冊ぐらい訳されているんですが、ノルウェーというのはなにしろ人口四百万人ぐらいの国だから、やっぱし日本語を訳せる翻訳者の数も少ないし、売れる部数も少ないんで、どうしても英語からの翻訳が半分ぐらいになります。四冊のうち、日本語から直接訳されているのが二冊と、英語訳からノルウェー語に訳されているのが二冊ということですね。
はっきり言って、いまはニューヨークが出版業界のハブ(中心軸)なんですよね。好むと好まざるとにかかわらず、そこを中心に世界の出版業界は回っています。言語的に言っても英語が業界のリンガ・フランカ(共通語)みたいになっています。この傾向はこれからもっと強くなるだろうと思われます。だから、いまおっしゃったように重訳の問題っていうのは、これからいっぱい出てくると思います。
正論で言えば、もちろん日本語からの直接翻訳がいちばん正確だし、またそうであるべきなんだけれども、正論ばかり言ってはいられないという状況はずいぶんと出てくるだろうと僕は思うんですよ。世界の交流のスピードは急激に速くなっているし、現実的に言って、日本語からの直訳を世界じゅうの国に対して要求できるほど、日本語の地位は今のところ高くないです、残念ながら。だから、僕らがそういうシステムにある程度慣れていかないといけないんじゃないかなと思います。そしてその中でルールみたいなものを確立していく必要がある。もう一つ、英語に翻訳されるときはかなり細かくチェックすることも必要だろうと。個人的にはそう思います。

柴田(元幸):僕も『ダブル/ダブル』っていうアンソロジーを訳したときには、ラテンアメリカの作家の、だから、スペイン語の英訳から訳したりしているわけですね。やっぱりそういうときには、スペイン語の原文が読める人に、スペイン語の原文と照らしあわせてもらって、直してもらいます。そうするとですね、やっぱりもう一般論はないです。英訳が良ければほとんど違いはありません。で、悪ければもう、ほとんど違う話になってたよ、てなこともあって、その人が全部訳し直してくれたというのに近かったりするんですね。だから、本当に一般論としては言えないですけれども、まあとにかく、重訳というのはコピーのコピーを取るみたいなもので、そうすると鮮度は・・・・・・鮮度じゃない。それは魚だな(笑)。精度というのかな。ええっと、が、やっぱり落ちる。その落ち方はそのコピー機の性能によるということにつきると思うんですよね。でもとにかく、そこから一般論が言えるとすれば、要するにもう、あらゆる翻訳は誤訳であるということで、何らかのノイズは忍び込むということであり、重訳の場合はノイズの増える割合が大きいということじゃないかなあ。

村上:バルザックを英語で読んだりとか、ドストエフスキーを英語で読んでいるとね、けっこうおもしろいんですよね。不思議な味わいがある。おもしろいっていう点から言えばね。

柴田:ただ、あれですよね、ヨーロッパ言語同士の翻訳だと、言語構造は、そうははなはだしく違わないから、一般論としてわりにノイズが増えないんだろうなという気はするんですよね。たとえば、英語の小説を日本語に訳して、その日本語からまた、たとえばフランス語に訳したりすると、かなり大きく変わる。要するに、英仏日とやるのはそんなに変わらないにしても、英日仏だと何か大きな変化が二度あるような気がしますね。

村上:僕の小説がそういうふうに重訳されているということから、書いた本人として思うのは、べつにいいんじゃない、とまでは言わないけど、もっと大事なものはありますよね。僕は細かい表現レベルのことよりは、もっと大きな物語レベルのものさえ伝わってくれればそれでいいやっていう部分はあります。作品自体に力があれば、多少の誤差は乗り越えていける。それよりは訳されたほうが嬉しいんです。

柴田:それはそうですよね。

(『翻訳夜話』 村上春樹 柴田元幸 文春新書)