2007/03/31

服従の概念

ニュルンベルグ裁判からアイヒマン裁判まで、そして最近のドイツでの戦争犯罪人の裁判にいたるまで、
どこでも同じ論拠が使われてきました。どんな組織も上官に対する服従を求めるのであり、自国の法律に対する服従を求めるのだというものです。
服従は政治的には重要な徳であり、服従なしにはどんな統治体も存続できないというわけです。良心に無制限の自由を認めると、
組織的な共同体は滅亡してしまうしかないのであり、このような自由が認められる場所はないというのです。


たしかにこの論拠はもっともらしく聞こえるので、その誤謬を確認するにはある程度の努力が必要です。この論拠がもっともらしいのは、
マディソンの表現では「すべての政府は」。もっとも独裁的な政府でも、専制政治でも、「合意の上になりたつ」
という真理に依拠しているからですが、これは誤謬であるのは、合意を服従と同じものと考えているところにあります。合意するのは成人であり、
服従するのは子供です。成人が服従する場合には、実際には組織や権威や法律を支持しているにすぎず、それを「服従」と呼んでいるのです。
これは非常に長い伝統のある悪質な誤謬なのです。厳密に政治的な状況に「服従」という語を使うのは、
政治科学のきわめて古い観念にさかのぼるのであり、プラトンやアリストテレス以来、すべての統治体は支配する者と支配される者で構成され、
支配する者が命令を下し、支配される者は命令に服従するとされたことによるのです。


もちろん本日は、こうした古い概念が西洋の政治思想の伝統にはいりこんできた理由を立ち入って説明する余裕はありません。
ただここではこうした観念は、
協調のとれた行動の圏域における人間関係というもっと正確な観念をうけついだものであることを指摘しておきたいと思います。
ごく初期の概念では、複数の人間が実行するすべての行動は、二つの段階に分割できるとされていました。「指導者」が始める端緒の段階と、
多くの人々が参加する実現の段階であり、多数者が参加することで、この行為は共通の営みとなるのです。


わたしたちの検討している問題の枠組みでは、どれほど強い人でも、他者の支援なしには、善きことでも悪しきことでも、
何も実現することはできないという洞察が重要になります。ここにあるのは平等性という観念であり、それが「指導者」という観念、
指導者とは平等な者のうちの第一人者にすぎないという観念です。指導者に服従しているようにみえる人々も、
実際には指導者とその営みを支援しているのです。こうした「服従」なしでは、指導者も無援なのです。このような成人の営みとは対照的に、
育児と隷属の条件のもとでは、子供や奴隷は「協力」することを拒むと無援になるのです。
服従という観念が意味をもってくるのはこの育児と隷属という二つの圏域であり、そこから服従という観念が政治的な問題に転用されたのです。


固定された階層秩序をもつ明確に官僚制的な組織でも、「歯車」や車輪が共通の営みに対する全体的な支援という視点から、
どのように機能しているかを調べるほうが、上官への服従という通常の視点から考察するよりも有益なのです。
わたしが自国の法律に服従するとしたら、それは実際にこの法律を支持していることを意味します。このことは、革命と叛乱の際には、
人々はこの暗黙的な同意を撤回するために、服従しなくなることを考えてみると、はっきりします。


この意味では、独裁体制のもとで公共生活に参加しなかった人々は、服従という名のもとにこうした支援が求められる「責任」
のある場に登場しないことで、その独裁体制を支持することを拒んだのです。十分な数の人々が「無責任に」行動して、支持を拒んだならば、
積極的な抵抗や叛乱なしでも、こうした統治形態にどのようなことが起こりうるかを、一瞬でも想像してみれば、この〈武器〉
がどれほど効果的であるか、お分かりいただけるはずです。20世紀に発見されたのは、
こうした非暴力行動と抵抗のさまざまな形式の一つなのです(たとえば市民的な不服従のもつ力をお考えください)。


それでもわたしたちがこうした新しい種類の戦争犯罪人、すなわち自発的にはいかなる犯罪にも手を染めなかった人々にも、
やはり実行したことにたいして責任を問うことができるのは、政治的な問題と道徳的な問題に関しては、
服従などというものは存在しないからです。奴隷でない成人において、服従という概念が通用できる唯一の圏域は、宗教的な圏域であり、
宗教の場では人々は神の言葉と命令に服従すると語ります。というのは、神と人間の関係は、
大人と子供の関係で考えるのがもっとも正しいからです。


ですから、公的な生活に参加し、命令に服従した人々に提起すべき問いは、「なぜ服従したのか」ではなく、「なぜ支持したのか」
という問いです。たんなる「言葉」が、ロゴスをもつ動物である人間の心にどれほど強く、奇妙な影響を与えるかをご存じであれば、
服従から支持へと言葉を変えることは、意味論的に無意味ではありません。この「服従」
という悪質な言葉をわたしたちの道徳的および政治的な思想の語彙からとりのぞいてしまえば、どれほど事態がすっきりとすることでしょう。
この問題を考え抜いてみれば、わたしたちはふたたびある種の自信と、ときには誇りをもてるようになるでしょう。かつては、
人類の尊厳と名誉と呼ばれていたものをです-おそらく人類の尊厳と名誉ではなく、人間であるという地位に固有の尊厳と名誉を。


(「独裁体制のもとでの個人の責任」 ハンナ・アーレント 中山元訳 筑摩書房 「責任と判断」より)



自分との仲違い

しかし良心が自動的に機能しない人々は、もっと別な基準にしたがっていたようです。こうした人々は、特定の行為を実行したあとでも、
自分と仲違いせずに生きてゆける限度はどこにあるかと問うのです。そしてこれらの人々は、
公的な生活とはまったく関与しないことを決めたのですが、それはこのことで世界がより善くなるからからというのではなく、そうしなければ、
自分と仲違いせずに生きていくことができないことを見極めたからです。ですから公的な生活に参加することを強制された場合には、
これらの人々は死を選びました。残酷な言い方ですが、こうした人々が殺人に手を染めることを拒んだのは、「汝殺すなかれ」
という古い掟をしっかりと守ったからではなく、殺人者である自分とともに生きていることができないと考えたからなのです。


道徳的な判断の際に、あらかじめこのような基準を定めておくというのは、思考の緻密さを示すものでも、
高度の知性を示すものでもありません。むしろこれは、自己とともに生きていきたいという望みであり、自己と交わりたい、
すなわちわたしと自己の間で無言の対話をつづけたいという好みを示すものです。これはソクラテスとプラトン以来、
わたしたちが思考と呼んでいる行為です。こうした思考は、すべての哲学的な思考の〈根〉のところにあるものです。
この思考は技術的なものではなく、理論的な問題にかかわるものでもありません。思考することを望み、自分で判断しなければならない人々と、
そうでない人々を隔てる〈溝〉は、社会、文化、教育などのどのような違いによっても定められません。


ヒトラー体制において「尊敬すべき」社会の人々が道徳的には完全に破壊したという事実が教えてくれたのは、こうした状況においては、
価値を大切にして、道徳的な規格や基準を固持する人々は信頼できないということでした。わたしたちはいまでは、
道徳的な規格や基準は一夜にして変わること、そして一夜にして変動が生じた後は、
何かを固持するという習慣だけが残されるのだということを学んでいます。


このような習慣にしたがう人々よりも信頼できるのは、疑問を抱く人々、懐疑的な人々です。懐疑主義が善いものだとか、
疑うことは健全なことだとか言いたいわけではありません。懐疑や疑念は、物事を吟味して、自分で決心するために使えるのです。最善なのは、
ただ一つのことだけが確実だと知っている人々です。すなわちどんなことが起ころうとも、わたしたちは生きるかぎり、
自分のうちの自己とともに生きなければならないことを知っている人々なのです。


それでは、自分の周囲で起きていることに手を貸すことを拒んだこうした人々を無責任だと咎める非難については、
どう考えればよいでしょうか。わたしは、世界に対する責任というもの、この何よりも政治的な責任というものを、
もはや負うことができなくなる極端な状況というものが、おこりうるということを認める必要があると思います。政治的な責任というものは、
つねにある最低限の政治的な権力を前提とするものだからです。そして自分が無能力であること、あらゆる力を奪われていることは、
公的な事柄に関与しないことの言い訳としては妥当なものだと思うのです。


このような力のなさを認識するためには、ある道徳的な特質が必要となります。幻想のうちに生きるのではなく、
現実と直面するための善き意志と善き信念を必要とするのです。それだけはこの言い訳の妥当性は強められると思います。
どんな絶望な状況においても、強さと力をわずかながらも残すことができるのは、まさに自分の無能力をみずから認めることによってなのです。


(「独裁体制のもとでの個人の責任」 ハンナ・アーレント 中山元訳 筑摩書房 「責任と判断」より)



2007/03/29

分け隔てるもの、「歴史」

母の写真の大部分を私から分け隔てているのは、「歴史」であった。「歴史」とは、
単にわれわれがまだ生まれていなかった時代のことではないであろうか? 母が身に着けている衣服を見て、
私は自分がまだ存在していなかったということを読み取る。私はその時期の母を思い出すことができない。
身近な人がいつもとちがった服装をしているのを見ると、何か唖然とさせられるものだ。1913年頃の写真を見ると、外出着姿で盛装した母は、
トック帽をかぶり、羽根飾りをつけ、手袋をはめ、袖口と襟まわりに薄地のフリルをひらひらさせ、《小粋な》身なりをしている。が、
その身なりとは裏腹に、母のまなざしはやさしく気取りがない。こんなふうに母が一つの「歴史」(生活儀式や流行や布地)
のなかに埋もれている姿は、後にも先にも見たことがないので、私の注意は、母からそれて、
いまはもうすたれてしまった服飾のほうに向けられる。というのも服装は、はかなく消え去るものであり、
われわれの愛する人の第二の墓となるからである。母を《ふたたび見出す》ためには、もっとずっとあとになって、
母が整理だんすの上に置いていた品々、象牙のコンパクト(私はその蓋を閉める音が好きだった)や切子ガラスの香水壜や、あるいはまた、
現在私のベッドの脇に置いてある背の低い椅子や、さらにまた、母が長椅子の上のほうに飾っていたラフィア椰子の装飾板や、
母が愛用していた大型のハンドバッグ(その使いやすい形は、《ハンドバッグ》というブルジョア的な観念にそぐわないものだった)を、
何枚かの写真で見ることが必要となるのだが、母を《ふたたび見出した》といっても、悲しいかな、それはつかのまのことで、
そうしたよみがえりは決して長続きさせることができないのだ。

このように、われわれが生まれる少し前に生きていたある人間の人生は、その特殊性のうちに、「歴史」の緊張そのものを、「歴史」
の隔離する作用を含んでいるのである。「歴史」とは、ヒステリーのようなものである。誰かに見られていなければ、成り立たない-
そしてそれを見るためには、その外に出ていなければならない。生きている人間であるかぎり、私はまさに「歴史」とは正反対のものであり、
ただ自分だけの生活史によって「歴史」を否定し、破壊する(私は「歴史」の《証人》なるものを信ずることができない。少なくとも、
私がその一人になることは不可能である。ミシュレは、自分自身の時代については、いわば何も書くことができなかった)。
母が私よりも前に生きていた時代、私にとってはそれが「歴史」にほかならない(それにまた、私にとって歴史上もっとも興味があるのは、
その時代である)。どのような過去想起(アナムネーズ)をおこなっても、自分自身から出発してその時代をかいま見ること
(これが過去想起の定義である)は、決してできないだろう。ところが、母が幼い私を胸に抱いている写真を見ると、
私はクレープデシンの縮じわの柔らかな肌ざわりと脂粉の香りを心によみがえらせることができるのである。


(「明るい部屋」 ロラン・バルト 花輪光訳 みすず書房)



2007/03/28

ストレンジネス効果の創造

ヘーゲルが「絶対知」と呼ぶものは、現在のグローバル化の予示であり、「歴史の終わり」と共に現れます。精神は、
その発展段階のすべてを経ると、歴史的プロセスの終わりを記す、ある完成状態に到達します。

この完成を、ヘーゲルはどのように定義しているか。それは、本質的に政治的な意味を持っています。歴史は、
最高レベルの自由が実現した時に終わりを遂げます。

人間の内的自由あるいは思考の自由に関していえば、この最高レベルは、ヘーゲルにすれば、プロテスタンティズムによって導かれた
「自省の原則」に相当します。

言い換えれば、みずから自分を裁くことができ、自分の行為に関する責任をきちんと判断できる時、人間は完全に自由なのです。

外的自由、政治的自由、社会的自由に関して言えば、自由の最高レベルは近代民主主義の台頭に相当します。
自己の意識と社会生活において解放された人間は、それ以上望みえないほどの完全な自由を手にします。

歴史が終わったといっても、もちろん何も起こらないという意味ではなく、それから先の出来事においては自己批判と民主主義以上のもの、
それ以上に羨望されるようなものは何ももたらされないという意味です。

絶対知とは、概念の領域でこのような政治的完成に相当するもの、すなわち最高レベルの完成に達した哲学的思考です。すべての問いは、
はたして絶対知が歴史と思考の停止を意味するのかどうかを知ることにあります。

ヘーゲルに批判的な読み手の多くはそう肯定し、たとえばハイデガーは、弁証法的哲学は最終的に時間と歴史を追い出し、その代わり、
国家の絶対権力に表されるような人間の有限性を、神の永遠性と無限性に置き換えたと論証しました。

フランシス・フクヤマは、絶対知にグローバル資本主義の勝利を見て取り、つまりグローバル資本主義に代換するものなどいっさいなく、
地球上における唯一の生産手段として君臨すると述べています。

たしかに、民主主義が資本主義と一体化していることは、今日、地球規模ではっきりうかがえます。

しかし私の考えでは、絶対知の登場によって、解放のプロセスすべて、
つまり人間が完全な自由を獲得するプロセスすべてが停止することを意味しません。ですから、新たな営みとは、
既存システムの外部に存在するもの、すなわち既存システムの内部には存在しないものを見つけることではけっしてありません。

絶対知は閉じた世界の思考であり、超越性はなく、部分修正されることもありません。グローバル化が意味するところはさまさにそこにあります。
各地で戦争や紛争が起こっているにもかかわらず、同じモデルが至るところで君臨しています。

とはいえ、グローバル化は「ストレンジネス(奇妙さ)効果」(同一性に他者性が混ざり合うこと)を妨げるものではありません。
まさにこの点を、私は絶対知に内在している「未来の根源」と呼んでいます。

そしてこれは、ストレンジネス効果の創造、つまり他者性のない世界において他者性を創造することなのです。
この逆説をあくまで維持し実践することが重要です。要は、歴史の終わりが告げられた現在、どうすれば我々は自己変革できるのか、
その術を知ることなのです。


(哲学者 カトリーヌ・マラブー氏インタビュー ダイアモンド・ハーバード・ビジネスレビュー 2007年4月号)



可塑的な脳

>あらゆる現実は可塑的(プラスティック)、すなわちけっして一つの形(フォルム)ではなく、そのことを確認し、
理解するために懐疑するということですね。

あなたはその可塑性の概念をニューロ・サイエンスにまで広げ、それに関する著作もあります。弁証法的に考えることで、
脳はより可塑的に洗練されていくのでしょうか・


神経生物学の分野において、脳を「可塑性がある」と形容するのは、まさに彫刻家や物理学者が扱う材料のように、
脳が過剰な抑圧に抵抗しながらも、しなやかさを兼ね備えているからです。

ニューロン間の結合は、環境と経験の影響下にあって大きさも変われば、構成も変わります。

たとえば、ピアニストの脳は機械整備士の脳と完全に同じ形をしているわけではありません。

教育、習慣、反復が、我々の脳を形づくります。今日の資本主義のイデオロギーは我々の脳が柔軟(フレキシブル)
だと信じさせたがっていますが-柔軟という言葉がいかに繰り返し用いられているか、注意してみてください-実際には、脳は可塑的であり、
すべてを許容するわけではなく、教育や訓練が施されれば施されるほど、批判能力が鍛えられていきます。

繰り返しますが、存在するものすべてはみずからを否定するのです。脳はこの自己否定の好例です。脳は、
末梢や忘却や抵抗の可能性を発展させることなしには、いかなる刻印も受けはしません。この拒絶の可能性なしに知性は存在しないのです。


可塑性を備えた弁証法的な力は、形の作用と、形を爆発し破壊する可能性を一体化させます。私はこの可塑的な弁証法の力が脳において機能し、
今日の新しい武器に立派になりえると確信しています。


 (哲学者 カトリーヌ・マラブー氏インタビュー ダイアモンド・ハーバード・ビジネスレビュー 2007年4月号)



二種類の資本主義

マルクスは、資本主義が西洋で自滅するだろうと予想しましたが、逆に東洋においてマルクス主義の下、開花しています。たしかに、
今日最大の矛盾の一つは、極東のマルクス主義的な資本主義の存在でしょう。

したがって、21世紀の企業は必然的に、資本主義のこの新しい顔をしっかり認識しなければなりません。そこでは、
弁証法が富と利潤に仕えているのです。戦いはもはや資本主義対社会主義ではなく、資本主義における二種類のマネジメント・
スタイルの間に存在します。


第一の欧米型は、ニューロン・タイプのマネジメント・スタイルを発展させ、企業組織は脳と同じく、中枢部がなく、
固定した権力のないまま結合体のように機能します。

第二の中国型は、はるかに明確に序列化されたモデルを土台としており、自由な発意と強力な国家の存在を巧みに組み合わせています。


この例からもわかるように、グローバル化とはストレンジネス効果と相容れないものではありません。
世界はグローバル化されているとはいえ、依然多極であり、アメリカの資本主義と中国の資本主義との間には構造的な不一致が存在します。


日本は必然的に、これらの二つの間に自分の場所を見出していかなければなりません。
欧米の資本主義と極東の資本主義のどちらを選択するのではなく、日本は弁証法という力を巧みに操り、両者の間をうまく貫くべきであると、
私は考えます。


これら二つの構造を可塑的に弁証法化しうるようなモデルが見出せれば、全体的な市場の自由化(欧米)と高度な国家管理主義(極東)
との間に新たな均衡を提唱することになるでしょう。その意味において、たしかに驚くような発明になると思われます。


今後日本は間違いなく、これら二種類の資本主義の両方を同時に見据えていかなければならないでしょう。新たな思弁的な挑戦です。
労働の可塑性が労働の柔軟性に代替できるとしたら、それはおそらく、二種類の資本主義を統合することにおいてでしょう。



(哲学者 カトリーヌ・マラブー氏インタビュー ダイアモンド・ハーバード・ビジネスレビュー 2007年4月号)

2007/03/27

新型インフルエンザ

新型インフルエンザ

近い将来に大流行することが予想されている人が免疫をもたないインフルエンザ。

鳥インフルエンザウィルス(H5N1)の遺伝子が突然変異したり、ブタの細胞内で人のインフルエンザウィルスと混じり合うなどして変異し、
生まれるとみられている。厚生労働省は、国内で大流行した場合、国民の25%が感染し、1300万~2500万人が受診、
17万~64万人が死亡すると推計している。


(産経新聞 2007年3月27日)



2007/03/23

田川建三『イエスという男』作品社2004年

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イエス自身は愛を語らない


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汝、
心をつくし、生命をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛せよ。




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というせりふは、イエスが言ったせりふだと思われている。言ったどころか、
ここにこそイエスの教えの根本が表現されていると思われている。しかし本当はそうでなない。
だいたいこのせりふはイエス自身が言ったのではなく、議論の相手である一人の律法学者が言ったものにすぎない。
イエスという男は、だいたいこんな宗教的な教条をれいれいしく口にして、それで話がすむと思うような甘い男ではない。
そもそもイエスは、現代の「ヒューマニズム」好みのキリスト教徒のように、やたらと愛の、
愛のと言ってふりまわすことはしていない。イエスの言動の本質をよく抽象してとらえれば、愛と名づけることができる、
と主張なさるのは御自由だが、イエス自身は「愛」という単語をほぼまったく用いていない、
という事実だけは知っておいた方がいい。中学とか高校の○×試験で、イエスの宗教=愛の教え、とつなげれば○をくれる、
という程度のことは、少なくとももうやめておいた方がいい。――そもそも、「イエスの宗教」などというものはないので、
イエスは宗教支配の社会に対して抗った男なのだけれども。

 福音書に「愛」もしくは「愛する」という単語が出て来るのは、「いつくしむ」とか「好む」
といった比較的軽い意味に用いられる二、三の場合は別として、この個所と、あと、例の「汝の敵を愛せ」
という句の前後のところだけがイエスの発言であって、残りはすべてマタイもしくはルカがその資料に対して書き加えたものである。
キリスト教は「愛」の宗教だとする教義的主張からイエスの言葉が解釈されるようになった、ということなのだ。
ところがイエス自身はこのように、「愛」という単語をほとんど用いていないばかりか、この二個所にしたところで、どちらも、
当時のユダヤ教が「神への愛」と「隣人愛」を強調して語っていた句を引用しつつ、
それに対して批判的に論評を加えているのである。


田川建三『イエスという男』作品社2004年






北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。それがどうした。

イラク戦争の折りに、ネット上で反戦の声を上げた若者たちを扱った番組を観た。うーん、そういうことではないんだなあ。
痒くなるような感じがした。気持ちはわからなくはないのだが、ものの考え方が、最初から的をはずしているのである。同じ時代に、
同じ地球上で、戦争が起こっているというのに、何もできない自分に無力感を覚える。と、彼らは言っていた。


ナニ、心配しなくてもいいって、まもなく他人事ではなくなるって、いずれミサイルが飛んでくるって。


意地悪でもなく、私はそう思った。つまり彼らは、無力感を覚えるというまさにそのことによって、戦争を他人事だと思っているのである。
自分のことではないと思っているのである。しかし、戦争が起こっているこの地球のこの時代を生きているのは、まさしくこの自分である。
なんで他人事みたいに無力感など覚えていられるものだろうか。


戦争を子供に教えるために、といった意見も聞かれたが、これも変である。戦争を生きている人は、戦争は生きるしかない。
そんなもの教えて教えられると思っているのは、戦争を他人事だと思っている人だけである。最後には、
反戦の声など無力だという自嘲ともなっていたが、これは仕方ない。声すなわち言葉というのは、こういった考えを伴って、
初めて力となるものだからである。


そんなふうに考えると、人というのは案外に呑気なもんである。何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。
自分の人生を他人事みたいに生きているから、そういうことになるのである。


で、北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれない。

それがどうした。


やっぱり私はそう思ってしまう。ミサイルが飛んでくるからと言って、これまでの生き方や考え方が変わるわけでもない。
生きても死んでも大差ない。歴史は戦争の繰返しである。人はそんなものに負けてもよいし、勝った者だってありはしない。
自分の人生を全うするという以外に、人生の意味などあるだろうか。


地球人類が滅びたとしても、そんなの誰のせいでもない。この一蓮托生感というのは、なかなかイイものである。
自分は別だと思うのをやめるだけのことである。


(「週間新潮連載 「死に方上手」 平成15年7月3日号 池田晶子)



2007/03/21

カラー化は氷山の一角

1986年にテレビの実業家テッド・ターナーがMGMのフィルム・ライブラリーを買い取ったとき、
映画作品の保護の問題が一挙に表面化した。ターナーは、古い映画の主要作品100本をデジタル技術によってカラー化すると発表したのである。
「権利関係を調べてみたところ、これらの作品の所有権はわたしにあった。自分のものをどう扱おうと問題はないはずだ」と彼は主張した。
著名な映画監督や映画ファンの多くがモノクロ映画の「古典」のカラー化に抗議し、アメリカ映画協会はこれを「文化的屠殺」だと非難した。
「スター・ウォーズ」の監督ジョージ・ルーカスは1991年に、実のところ、カラー化は氷山の一角にすぎないと述べている。


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「自分の作品を切り刻まれ、色を付けられ、圧縮される映画作家の味わってきた苦痛も、
テクノロジーがこれから狙っていることに比べれば何ほどのこともない・・・・・・映画作品を創るわれわれの立場を、
アメリカが諸外国と一致協力して護らなければ、連中がわれわれが起用しなかったスターに、われわれの書いたこともない台詞を喋らせ、
われわれが奉仕しようなどとは夢にも思わなかったような目的や主人に、全面的に協力されているさまを、
いつか見せつけられることになるのだろう。」



(「リコンフィギュアード・アイ」 ウィリアム・J・ミッチェル 伊藤俊二監修 福岡洋一訳 アスキー出版)



仕事と労働の同一視

労働が最も蔑まれた最低の地位から、人間のすべての活動力の中で最も評価されるものとして最高の地位に突然見事に上昇したのは、
ロックが、労働はすべての財産の源泉であるということを発見したときに端を発している。その後、アダム・
スミスは労働はすべての富の源泉であると主張したときにも、労働評価の上昇は続き、マルクスの「労働のシステム」において頂点に達した。
ここでは、労働はすべての生産性の源泉となり、人間のほかならぬ人間性そのものの表現となったのである。しかし、この三人のうち、
労働それ自体に関心をもったのはマルクスだけであった。ロックが関心をもっていたのは、社会の根本としての私有財産制であったし、
スミスが望んでいたことは、富を無制限に蓄積するための拘束のない進歩を説明し、それを確実なものにすることであったからである。しかし、
この三人はいずれも-その中ではマルクスが最大の力と一貫性をもっていたが-労働は人間の最高の世界建設能力と考えられると主張した。
しかし実際には、労働は、人間の活動力のうちで最も自然的で、最も非世界的な活動力であるから、彼らはそれぞれ-ここでもまた、
マルクスが最も目立っていたが-ある一定のまぎれもない矛盾にとらえられた。これらの矛盾の最も明白な解決方法、あるいはむしろ、
この偉大な著作家たちがその矛盾に気づかないでいた最も明白な理由は、彼らが仕事と労働を同一視したために、
本来仕事だけがもっているいくつかの能力が労働に与えられたという点にある。それは、この問題の本性そのものから生じているように思われる。
このような同一視は、明白な不条理を導き出さずにはおかない。もっともその不条理は、普通、
ヴェブレンの次の文章以上に鮮やかに明示されることはないのだが。すなわち、「生産的労働の永続的証拠はその物質的生産物-普通、
ある消費用品-である」というのがそれである。この場合、彼が、いわゆる労働の生産性を証明するために文の前半においた「永続的証拠」は、
彼が現象そのものの事実的な証拠にいわば強制されて文の後半においた生産物の「消費」という言葉によって即座に打ち消されているのである。


たとえばロックは、労働をただ「短命な物」ばかり生産するという隠れもない恥辱から救うために、
「人が損傷することなく持ちうる永続的な物」、すなわち貨幣を導入しなければならなかった。しかし、これは一種の急場を救う神であって、
この神がなければ、生命過程に服従する労働する肉体が、財産のように永続的で長続きのする物の源泉となることはできなかったであろう。
なぜなら労働過程の活動力よりも長く生き残り保持される「耐久物」はないからである。
そして実際には人間を<労働する動物>と定義づけたマルクスでさえ、適切にいえば労働の生産性は、物化、すなわち「物の客観的世界の創造」
によってのみ始まると認めざるをえなかった。しかし労働の努力をもってしても、労働する動物は、
それを何度も反復しないわけにはいかないから、その努力は、依然として「自然によって押しつけられた永遠の必要」である。ところが一方で、
マルクスは労働の「過程はその生産物において終わりに達する」と強調している。しかし、この場合、彼は、この過程にかんする彼自身の定義、
すなわち、この過程は、生産物が即座に肉体の生命過程によって「合体され」、消費され、滅ぼされる「人間と自然の間の新陳代謝」
であるという定義を忘れているのである。


(「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 筑摩学芸文庫 P157-159)



永劫回帰

熟知できる物のうちで最も耐久性の低い物は、生命過程そのものに必要とされる物である。それを消費する時間は、
それを生産する時間よりも短い。ロックの言葉にあるように、「人間の生命に本当に有益であり」、「生存の必要」に有益であるような「よい物」
は、いずれも「一般に短命であり-使用によって消費されない場合には-それだけで腐敗し、滅びてしまう」。世界にわずかな時間滞在した後、
それは、動物としての人間の生命過程の中に吸収されるか、腐蝕するか、いずれにしても、それを生みだした自然的過程に戻る。それは、
たしかに、人工物の形をとることによって、人工物の世界に束の間の場所を獲得するが、世界のいかなる部分よりも早く消滅する。
世界性という点から考えると、それは、人工物であるとはいえ、絶えず循環する自然の運動に従って、生まれ、去り、生産され、消費される。
生命ある有機体の運動も循環する。人間の肉体も例外ではない。なぜなら人間の肉体も、
その存在に浸透しそれを生あるものにしている過程に耐えているからである。生命とは、至るところで耐久性を使い尽くし、それを消耗させ、
消滅させる一つの過程である。そして、死んだ物体とは、結局のところ、小さな、単一の、循環する生命過程の結末にほかならず、それは、
一切を含む自然の巨大な円環の中に帰ってゆく。この円環の中では、始めもなければ終わりもなく、すべての自然物が、
変化もなければ死もない繰り返しの中で回転しているのである。


自然にも、また自然がすべての生あるものを投げ込む循環運動にも、私たちが理解しているような生と死はない。人間の生と死は、
単純な自然の出来事ではない。それは、ユニークで、他のものと取り換えることのできない、そして繰り返しのきかない実体である個人が、
その中に現われ、そこから去ってゆく世界に係わっている。世界は、絶えざる運動の中にあるのではない。むしろ、それが耐久性をもち、
相対的な永続性をもっているからこそ、人間はそこに現われ、そこから消えることができるのである。いいかえれば、世界は、
そこに個人が現われる以前に存在し、彼がそこを去ったのちにも生き残る。人間の生と死はこのような世界を前提としているのである。
だから人間がその中に生まれ、死んでそこを去るような世界がないとすれば、そこには、変化なき永遠の循環以外になにもなく、人間は、
他のすべての動物種と同じく、死のない無窮の中に放り込まれるだろう。ニーチェは、存在の最高原理として「永劫回帰」を確信したが、
生の哲学の中で、このような確信に到達しないものがあるとすれば、それは、ただ自分の無知をさらけだしているにすぎない。


(「人間の条件」 ハンナ・アーレント 志水速雄訳 筑摩学芸文庫 P151-152)



2007/03/20

異種の増殖

一般に、コンピュータのファイルはいつでも修正可能であるため、いくつもの異なったバージョンがたちまちのうちに生じ、
再現もなく増えていくものだ。研究者が楽譜やテクストの考証を進めるときは、いろいろな版や手稿の系統を遡ってみて、
オリジナルの決定版を突き止めようとすることが多い。しかし、画像ファイルの血統を辿ることは、普通の場合は不可能である。
その画像が今取り込まれたばかりで誰の手にも加わっていないものなのか、それとも、どこの誰とも知れない人たちの手から手へと渡るうちに、
変形につぐ変形を重ねてきたものなのか、それを判断する手がかりはどこにもないかもしれない。このため、
われわれは芸術というものについての伝統的な概念を維持しきれなくなってしまう。もはや芸術の世界は、堅固で恒久的な、
完成された作品だけのものではなく、口承の叙事詩にも似て絶えず変化し、
異種を生み出し続けるような作品の存在も認めねばならなくなってきたのだ。またそれに応じて、画像の内容に対する作者個人の責任だとか、
意味を作者が決定する権利だとか、作者の権威だとかいった概念も力を失ってきている。


さらに、画像の作り手と受け手という伝統的な区別も消滅する。たとえば科学者が、あるデジタル画像を解釈する際に、
興味をそそる特徴や関係を際立たせようとデジタル・データに対して変形操作を行ない、その結果を別の新しい画像ファイルに保存したとしよう。
このとき、データに対して与えられた1つの読みが新たな作品となるのであり、それはオリジナルのデータと同じように、
あるいはそれ以上にわれわれの注意と関心に惹くことだろう。つまり、デジタル画像に(宗教画が果たしてきたような)
儀式の道具としての役割や、(ヴァルター・ベンヤミンがその卓越した分析の中で写真や印刷された画像に与えたような)
大量消費の対象としての役割を求めるべきではない。デジタル画像は、
全地球を取り巻きつつある高速ネットワークを駆けめぐる情報の断片と見なすべきである。われわれはその断片を受け取って、それに変形を加え、
DNAのように組み替えを行ない、独自の生命力と価値を持つ、新しい知的構成物を生み出すのである(これと同じような性質が、
ワードプロセッサで扱うテクストの断片や、コンピュータ・ミュージック・システムで扱うサンプリングしたデジタル・サウンドにも見られる)。
ベンヤミンの言うように、画像の複製を機械的に作る手段によって礼拝的価値よりも展示価値の方が重視されるようになったとするなら、
デジタル画像の技術は展示価値をさらに新しい種類の使用価値-コンピュータで扱えるという「入力済み」価値-に置き換えようとしている。
デジタル情報による増殖の時代が、機械的複製の時代を過去に押しやろうとしているのだ。


(「リコンフィギュアード・アイ」 ウィリアム・J・ミッチェル 伊藤俊二監修 福岡洋一訳 アスキー出版)



自署的芸術と代署的芸術

ネルソン・グッドマンは権威あるその著書「芸術の言語」の中で、オリジナルとコピーを見分ける問題の本質をはっきりとさせるために、
いくつかの技術的な判別基準を導入した。グッドマンはまず、1段階の芸術と2段階の芸術という区別を提案する。
鉛筆を使ったスケッチやポラロイド写真は1段階の芸術だが、音楽は作曲と演奏という2つの段階に分かれていることがよくある。画像も、
食刻法で画像を作ってから刷るエッチング、ネガを露光させ、現像してからプリントする写真、そしてまず画像をコード化し、
それから表示するデジタル画などのように、2つの段階を経て作られるものが多い。
2段階の芸術ではそれぞれの作業を別々の人間が担当することもしばしばである。たとえば、
ずっと以前に世を去った作曲家の曲をピアニストが弾くとか、すでに忘れられた人物が撮った写真を、
保存されていたネガから別の写真家がプリントするとか、作者の分からない画像ファイルを、コンピュータ・
マニアがどこか遠くのBBSから入手して表示するとかいった具合である。


さらにグッドマンは、自署的芸術(オートグラフィック)と代署的芸術(アログラフィック)という区別を立てている。
たとえば絵画は自署的芸術であるが、楽譜に記された音楽は代署的芸術である。本質的な違いは、
音楽作品が一定の体系を持つ記譜法によって規定されるのに対し、絵画はそうした体系に縛られないという点にある。
楽譜は音符の1つ1つに至るまで厳密にコピーすることが可能であり、正確でさえあればどのコピーも、
その作品の紛れもない実例だと言っていい。基本的に、グッドマンの見方は次のようなものである。ある作品が
「何らかの記号や文字を並べて連結してゆく一定の記譜法」で規定されているとすると、まさにその事実が「作品の構成要素となる特徴を、
偶然生じたにすぎない他のあらゆる特徴から区別する手段を提供する-つまり、作品構成に不可欠の特徴を固定し、
それぞれの特徴に許される変動の範囲を規定する」のである。ところが、絵画はこうした記譜法のような体系に依存しないため、
「あらゆる絵画的特徴-その絵が持っている絵としてのあらゆる特徴-は、構成要素として単独に取り出すことができない、どんな特徴にしろ、
偶然生じたものとして無視できはしないし、いかなる逸脱も無意味ではあり得ない」ということになる。
楽譜がある作品の確かな実例となるためには、別に作曲者自身が書いたものである必要はない。しかし絵画の場合は、
画家自身が実際に作り出したものでなければ、それを本物とは呼べない。もしも他人の手で作られた作品なら、それは贋作ということになる。


絵画やビデオのような自署的芸術の作品はアナログ情報から成っている。厳密な形での複製は不可能で、
コピーを繰り返すうちに必ずノイズが混入し、質が低下する。一方、代署的芸術の作品はデジタル情報からなっている。
楽譜や劇の脚本や画像ファイルは、どのコピーにもまったく差がない。ところで、2段階の芸術はしばしば代署的であるが、
必ずそうであるともいえない。たとえば、エッチングの版や写真のネガはアナログ情報からなっていて、
厳密な複製や完全に同一のプリントを作ることは不可能である。また、脚本や楽譜のように、
作品の構成要素となる特徴を厳密な形で規定しているわけでもない。


代署的芸術の作品はいくらでも実例をこしらえることができる(自署的芸術に対して実例という概念を当てはめることはできない-
自署的芸術の作品はそれぞれ独自のものであるから)。音楽作品の場合は、楽譜を忠実に追った演奏が実例である。劇の場合なら、
脚本に忠実に従った上演が実例である。そしてデジタル画像であれば、
画像ファイルに規定されている階調や色を忠実に守ったディスプレイ上の表示やプリントが実例である。同一の作品の実例どうしの間にも、
偶然生じた特徴の部分に(ときには大きな)差が見られることがある。ただし、それがどの作品の実例かを理解してもらうためには、
必須の特徴が残されていることはやはり必要である。そういうわけで、音楽を演奏したり劇を上演したりする場合、
ある程度までは自由に解釈することができる-というより、ありきたりでない斬新な解釈によって、
これまで考えつかなかった新たな次元を作品から取り出してみせてくれる手腕にこそ、高い評価が与えられる。これと同じように、
コンピュータを使って、ある作品のさまざまな解釈を機械的に生み出すこともできる。いろいろなアルゴリズムやデバイスによって、
はっきり見分けがつく実例のバリエーションを作り出すのである。


(「リコンフィギュアード・アイ」 ウィリアム・J・ミッチェル 伊藤俊二監修 福岡洋一訳 アスキー出版)



2007/03/19

不可視性としての写真 3.写真表現=記号の存在論(2)

ここまでは、私はウェリングの名前を用いず、他の名前に託して論じてきたが、ここから先は、彼の具体的な作品に依らなければ論じられない。

ビュスタモントが、極限まで表層を浮上させた構造としての写真性を、ウェリングはレフェランの中へ解消=解像させる。画面にレフェランが現れ、ちょうど質量が空間を歪めようと、画面を歪ませ、その歪みにおいて写真的不可視は表出される。そこで、ウェリングが重視するものが、固有名である。彼は写真の解像度(つまり、レフェランの中への構造の解消=解像)を上げることで、画面に歪みをもたらすが、この歪みをもたらすものこそ固有名詞である。ウェリングの作品に、(抽象写真をシリーズを除いて)全て、撮影した場所の名前が入っているのはその為なのだ。

例えばフォルクスワーゲン工場/Wolfsburgのシリーズを見よう。ナチスの、国民総モータライゼーション政策の拠点として、人工的に中央ドイツの荒野の真中に出現した街、ヴォルフスブルク、その旧市街は、工場労働者の為に計画的に建造されたものだが、大部分は爆撃を免れ、今でも残っている。ウェリングが被写体として選んだそれらの町並みのいくつかは、ナチスの過去を連想させる美学的特徴を帯びている。けれども、写真の時間性が、写真の中で過ぎ去った時間にあるのでなかったように、ウェリングは過ぎ去ったナチスに思いを馳せているのではない。

ドイツの人工的都市、鬱陶しいほど、偏執的に絡み合った、灰色の空を覆い尽くす冬木立の中産階級向けの凡庸な住宅棟の異様な輝き。撮影されているものは、ごくありふれた日常的断片であるが、それらの存在ははっきりと、あの時代の歴史性に「浸透させて」いるのである。歴史がまだ残っていて、人に過去の忌まわしい記憶をよみがえらせる、等というという陳腐な追憶としての過去は問題ではない。ウェリングの作品によって、その歴史性は、目の前の建物や工場から、切り離せないものとして、それらの被写体を単なる表象から、レフェランにし、「特に、どこといって変なところはないのだが、何かが変である」レフェランの力によって、ウェリングは構造を歴史性の中へ解消=解像するのだ。

また、アメリカの奇妙な郊外住宅を撮影したRailroad Townsのシリーズはどうか。
スタイルとして一見ビュスタモントに接近しているように見えるが、ここで、ウェリングが見据えている歴史性は、ヨーロッパからの差異として、言い換えれば、ヨーロッパの突然変異としてのアメリカの歴史性である。(恐らく、日本の建売住宅展示場なら、もっと凄まじくも滑稽な醜悪さが顕在化しているだろう。) この歴史性は、何等かのアメリカ通史に位置付けられるような歴史ではないのは、ヴォルクスブルグの場合と同じである。建築家リチャードソンの設計した建物を撮ったシリーズでは、その点がまだ曖昧であったものが、Railroad Townsのシリーズでは、明確にされ、その結果、顕在的な歴史的データに還元されてしまうような歴史性は注意深く取り除かれ、どこにでもある、日常的な光景の中に浸透した歴史性だけが抽出されている。もっと具体的に言えば、一面においてこの歴史性とは、様々な様態(アメリカの郊外住宅や建築家の設計や、果ては日本の展示場のように)において転調、変調を受けつつ現れる19世紀近代である。しかも、別の面では、それはまさにこの近代が被っている変調と転調そのものである。かつてのウェリングは前者に重点をおいていたが、最近では作品が純化した結果、後者へと向かっている。

しかし、何故19世紀なのか。

「ポストモダン」、例えば、自己言及性、メタフィクション、メディアのリアリティ、「大きな物語」の終焉とか、メディア空間での軽やかな差異の戯れ、シュミレーショニズムとか、カットアップないしリミックスによる無限の自己生産とか、それらしき定義を我々は既に幾つか聞いている。しかし、以上の規定のすべては、実は既にまずドイツロマン派にあてはまってしまう。言い換えれば、それらは19世紀的=モダンなのだ。作品が完結した作品としてではなく、言語の自己展開によって無限に反射を繰り返すプロセスとして構成されることは、シュレーゲルの美学の一つの理解だろうし、作品が自ら自分の虚構性、あるいは虚構としての完結性を裏切って暴き立ててしまうこととしてのメタフィクションはホフマンの写真では珍しくなく、人間とか天才とか言った「大きな物語」が卑近な茶呑み話へと転落し希薄に流通する様なロマン派ではないがグラッベの作品を見ればよく、メディア的現実性に取り巻かれている事への認識はその名も「モダンの批判(1846)」というキルケゴールの一文にあらわである。彼らが新しいのではない。我々が古いのだ。

ここから2つの重要な視点が提起されるだろう。

1つは、ポストモダンと専ら言われている概念は実はモダンであるということ。そして、その際モダンとして了解されていたこと(大きな物語、作品の統一性)はむしろクラシックだということ、従って、ポストモダンなるものはこれまで基本的に存在しなかった。

次に、しかし逆に言えば、モダンの概念が抽出され得るということは、すなわち我々の生きている生の諸条件がもはやモダンなものではなくなり、いわば認識論的な距離で獲得していることの結果であるということ。言い換えれば、我々はポストモダンな世界を既に生きているために、未だにポストモダンを認識できない、丁度自分の見ている眼を自分では見ることが出来ないように。

だから、ウェリングがモダンに視線を向けることが、彼のポストモダンと矛盾するものではないことは明らかである。彼にとって近代とは、写真性そのものである。彼が選択する被写体が、全ての写真の発生期と平行していることを思い出そう。Railroad Townsのシリーズにおいて、我々は、近代の視覚構造としての写真的不可視、それが様々な様態において変調され、その変調とともにレフェランの中に織り込まれていることを知るのである。

こうして、単なる美醜とは異質の、見苦しい奇妙さ、醜悪さとして現れる、写真表現に固有の歴史性、その最も意識的な表現を我々はジェームズ・ウェリングの最近の仕事において見るであろう。ウェリングに写真史に対するいわゆるポストモダン的な参照、皮肉を見るのは大きな誤りだと思う。重ねられた歴史性は美術史や写真史のそれではない。写真の時間性が経過する時間でもなく、瞬間でもなかったように、それは「外・時間」に属し、この時間性=歴史性が、写真の1つ1つのレフェランに内在している。そして、これらレフェランの特質とは、写真的に不可視だということだ。写真的不可視、それは全面的可視性の世界の真中に、灰色の光を侵出させる。

(「不可視性としての写真」 3.写真表現=記号の存在論 清水穣)

不可視性としての写真 3.写真表現=記号の存在論(1)

3.写真表現=記号の存在論

我々が扱ってきた、問題の系列を今一度挙げてみよう。写真-写真性-レフェランという基本軸があり、そこに、それぞれ潜在性、表層性、モンタージュという概念が絡まっている。写真とは表象するものであり、写真性は表現されるものであり、そしてレフェランは表現である。そして、表現するものは潜在的であり、表現されるものは表層においてされ、レフェランは本質的に(狭い美術史的な意味ではなく)モンタージュである。全てに共通する性質は、中間的な境界線上の質、すなわち写真的不可視-色彩、である。そして、最終的に、これらは、視覚構造の外で写真という記号の存在を形成している。

我々は、写真という言葉を技術的、社会的に制約された一連の表現形式とは別に考察してきた。つまり、写真性を持つ表現は全て写真であり、例え印画紙とカメラによる表現でも、写真性を持たないものは写真ではない。

なるほど、これは突飛な言い方であり、観念的だとの誹りを受けるであろう。我々は、無条件にある伝統的な認識論の図式に従って、私がいて、私の周りの世界が在って、それを私は写真に撮る、と考える。そこに時間性を導入して、かつて私が撮影した時には、意識していなかったものを、現在私は写真において認識する、というふうに、潜在意識が発見され、たとも考える。どこに写真の衝撃があるというのか?また、これはリアリズムの基盤であるが、リアリズムほど観念的なものがあろうか?

我々は、この前提を捨てるところから論じ始めた。写真の衝撃とは、それが世界を凍り付かせ、我々を世界の境界まで連れて行くところにある。この衝撃は、写真の本質として常に潜在しているものである。そこから、構造も無意識も時間性も、あるいはリアリズムも考察されなおさねばならなかった。そして、衝撃がどこから来るのかという問題が残っている。


そこで、ここでは、具体的に現代の写真表現を論じていきたい。「複製技術時代の芸術」からほぼ60年の間に起こったことは、視覚そのものの写真化である。視覚の写真性はもはやジャンルとしての写真を越え、例えば非常にデジタルなメディアとしてのアニメーション映像において、まさしく最も顕著であり、「意識から漏れたものが写っている」という事実に19世紀的な驚愕をおぼえる人はもはやいない。何故なら、1章でも言及したように、我々が視覚的無意識を日常的に回収してしまったからである。

可能性と潜在性の差異、この無視されやすい微妙な差異をとびこえて、潜在的なものは、都合よく可能的なものとして回収されてしまった、「眼では見えなかったけど、カメラには写っている」という具合に。

潜在性を、可能性の時間的落差(見えなかったが、写っている)へと回収し、こうして全てのものは可視的になった。カメラとはこの、全面的可視性の表現だったのである。眼に見えるとか、眼に見えないとかいう二分法は消滅した。カメラに写るものが見えるものであり、現実的である。そして原理的にカメラ(それは光学カメラには限らない)で撮影されないものはないのだから、我々には見えないものはない。ここから、アニメーション映像は、映像として成立し、またこの全面的可視性において「カメラ的」なのである。一方で、ベンヤミンには見えなかったものを日常的な可視性の中へ回収した代償として、我々は彼には見えていたもの(潜在的な質)をそれこそ見失ってしまった。

1章において我々は、写真の本質とは、視覚構造にとっての絶対的外部として内在する、写真は不可視である、と規定した。潜在的な視覚性として、この写真的不可視は決して見られないが、レフェランの中に存在している。何故、我々にはそれがわかるのだろうか?
決して見られ得ないものの存在を我々に向って表出すること、これが現代の写真の問題であろう。
同時にそれは上で述べたような現代の視覚性から逃れ、その絶対的に潜在的な質にむかって撮られるものである。それは「見えなかったものも見る」近代の写真とは逆に、何も写っていないことによって、写真化した視覚性を本質的に逃れたもの(潜在性としての「不可視」)が写っている写真である。事件、風景、霊魂・・・・・・いずれにせよ何かを表象して写している写真は最初から失敗している。
現代の写真を見ることは出来ない。何故ならそれは見ようとしない人にだけ見える(完全な自動詞的意味において)ものだからである。


出来る限り無表情なもの、そして眼には映っているが決して見てはいないもの、いわば視覚領野の余白部分-例えば給水塔(ベッヒャー)、人の顔(ルフ)、美術館の雑踏(シュトルート)、凡庸な風景(ビュスタモント)、劇場のスクリーン(杉本博司)等など-を、被写体として固定してしまうことである。写真から「見られたもの」を排除するこの方法論は正当ではあるがしかし彼らは大抵シリーズ化したルーティンワークに陥っている。
コンセプトとして純粋なその退屈さを克服しようとすると、決まって知的情緒とでも呼びたい無人の映像表現が現れる(杉本博司の海、シュトルートの風景)。現時点ではもうこの方法論は適用しないといってよいだろう。

「無人」の表現は往々にして「空虚」な表現に陥る。杉本の無人の海は、観る者の情緒を誘う。つまり、無人の海に写っているのは空ろな「私」である。しかし、写真性は空虚、隙間、真空を嫌う。だから、写真の「無人」性とは文字どおり、人(「私」も含めて)の無い性質であり、単一の写真性の露出でなければならない。
ベッヒャー的な方法論から出発した作家の中でも最も先鋭的な1人であるビュスタモントの風景のシリーズ「タブロー」を例にとろう。

何故「タブロー」なのか? リヒターの写真絵画の逆である。何故写されているものは造成地なのか? 2つのシステム-人工と自然-の中間に広がる場所だからである。ビュスタモントは、写真の本質としての不可視性が、中間的な存在であることを示唆し、そして、それが色彩と深い関係にあることを「カラー写真」によって示している。彼の人気のない造成地の写真は、もはや杉本の海のような、空っぽの「私」を写している無人の風景表現ではなく、無人性と言うことが単なる事実の確認にすぎない風景表現である。

ビュスタモントの写真には、見られたものもなく、見るものもない。何故なら、そこには、視覚領野の構造としての不可視性(「見ている」)だけが存在しているからである。

この純粋度と、不可視性の追求は驚くべきものがあるが、ビュスタモントでは、1つ1つの風景から、徹底的に意味がはぎとられ、その選択は任意である。その結果、レフェランが生じずに、画面には恐るべき平板さが拡がることとなる。我々に写真的不可視を感じさせるのは、この異様な平板さであるが、他方で写真的不可視としての構造は、内在化の契機を与えられず、低い解像度のまま、どことも知れず画面の表層で漂いつづけるばかりである。ビュスタモントの徹底性と純粋さが、写真的不可視を他に例を見ないほど表面へ押し出しはするが、それが同時に限界になっているのだ。構造は、解体=解像せず、不可視の膜として画面の表層にせり出すだけである。

(「不可視性としての写真」 3.写真表現=記号の存在論 清水穣)

2007/03/17

不可視性としての写真 2.表層-色彩に関するノート(1)

2.表層-色彩に関するノート


写真の絵画性とは何だったか。この問題に対して、我々は逆説的な答えで答えたい。つまり、絵画的写真は存在しなかった、逆に、
写真的絵画だけが存在したのである、と。写真と絵画の技術的な相違に惑わされてはならない。肖像画家が写真家に鞍替えしたのは、彼らが「顔」
という写真と同じ性質を持った特権的な記号を既に表現していた=写真を撮っていたからである。観相学と骨相学は、
形を変えた写真論に他ならない。また19世紀後半に、典型的な印象派スタイルで描かれた膨大で凡庸な絵画群は、
スナップ写真のように見えはしないだろうか?


しかし、ここで考察したいことは、むしろ、絵画が写真と共通に持っているもの、つまり絵画の写真性についてである。


例を挙げよう。モネ晩年の巨大な水連の連作を眺めながら、何故これほど抽象的な絵が「水連」と題されているのだろうと考える。
ターナーの空気とは異なる水連の絵画には何が描かれているのか。水連の池の周りの風景は障壁画の枠のように描かれているだけである。
細かく縮れ乱反射しながら水面に映りこむ別世界の水連が描かれるとき、雰囲気で充満した水辺の風景は、一気に厚みの無い純粋な映像へと転じ、
そこに現れるものは冷たく透明な表層としての水面である。非物質的で、それ自身は視覚と逃れながら、
すべての映像を映像たらしめる冷ややかな水面=表層。これこそ「水連」によってモネが描こうとしたものであり、
モデルニテと呼ばれるものの一つの本質であり、そしてターナーの空気からモネを峻別するものである。冷たく透明な表層が、
それ自信は視覚から逃れる時、それはしばしばhaptique(触覚的な視覚性)な表現形式をとる。


もう1つ例を挙げよう。Ⅰ章で論じた潜在性を絵画が獲得する為には、そして、それが現代絵画の冒険であったはずだが、
絵画的空間と表層を多重化する、つまり亀裂を走らせ、異なる空間と位相の間を産み出し、それらの間に運動を起こす手続きが必要である。
これこそ、モンタージュと呼ばれるものに他ならない。風景や林檎、サンヴィクトワール山や水浴する人々が、潜在性を帯びる為に、
1つの画面の中で様々な空間と表層が重なりあい、また結晶の1つ1つの断面のように連結しあうような構成が求められた。
「そのおのおのが宝石の切断面のように輝く無数の運動・・・・・・」


私は、この表層とモンタージュが絵画の写真性をなしていると考える。そして、この意味での写真性の最も統合された表現をゲルハルト・
リヒターに見る。


haptiqueな表層のさらに高度な表現、つまり、水連を必要としないほどに完成された表現を、彼のAbstract
Paintingに見ることが出来るだろう。そこでは、ある色面が別の色面に折り重なり、あるいは畳み込まれることによって、
言い換えれば色面がモンタージュされることによって、異常な深みを持った表層(矛盾した言い方だが)が出現している。モンタージュ、色彩、
透明性、表層に対するリヒターの深い洞察によって、その作品には絵画における不可視性であるところの「光=色彩」が漲っているのだ。
彼が抽象絵画と同時に写真を元にした作品を制作していることこそ、リヒターのユンシステンシーに他ならない、つまり、どちらのスタイルも、
リヒターの「写真」なのである。2つのスタイルをつなぐものは"painting"ではない、"abstract"のほうである。
どちらの写真の抽象的な潜在性の表現なのであり、それが抽象絵画では光として、写真絵画ではレフェランとしてあらわれている。色彩は、
写真と(別にカラー写真であるか否かは問題ではない)本質的な関係にある。
写真的な認識の布置をクレイリーがゲーテの色彩論から論じ始めているのは偶然ではないのだ。


(「不可視性としての写真」 2.表層-色彩に関するノート 清水穣)



不可視性としての写真 2.表層-色彩に関するノート(2)

ところで、ヴィトゲンシュタインが(白黒)写真について考察するとき、彼の関心もまた色彩にある。


ヴィトゲンシュタインはまず、それ自体として存在する色というものはない、と言う。
ある絵画の中の青はカラーチャートの青とは別の色である。もっとも、このように色を色調として捉える、つまり、
ある色は常に他の色との関係において見られ、理解される、という考え方はそれ自体目新しいものではないし、色彩学の常識であろう。しかし、
彼はそこに透明性という概念を絡ませる。それは、透明色のことではなく、不透明色が産み出す効果としてのそれである。例えば、
油絵にかかれた透明なグラスの表現がそうである。色彩が、基本色に基づいた互いに示差的なシステムをなすならば、透明性というのも、自ずと、
その中の1つの関係性に他なるまい。例えばジョゼフ・アルバースなら、透明性とは、
2つの色の間にその2色の丁度中間の色を置いたときの生じる相互効果だと言うだろう。しかし、白~灰色~黒という階調には透明性は生じない。
何故か?


また、彼は色盲の人の色覚を問題にする。赤緑色盲の人に不可能なことは、赤と緑を区別することであって、
赤ないし緑を見ることではない。もし、色彩が示差的なシステムをなすとするならば、例え赤が知覚出来ないひとでも、
その他のすべての色ではない色として、赤が見えるはずである。いわば、生きられた色彩システムとして、色盲の人が赤を見ているとすれば、
何故、緑との区別がつかないのか?それは、システムの中で緑が占める関係性と、赤のそれが同じだからであろう。しかし、それなら、
何故正常な色覚の持ち主は、赤と緑を区別出来るのか?


これらがヴィトゲンシュタインの執拗な問である。彼は、色彩学の常識から、モンドリアンやカンディンスキーの「コンポジション」
へ進む代りに、驚くべき結論にいたる:グレースケールはすべての色の中間領域に分布する色であり、つまり、
アルバースによれば透明性の効果を可能にする色である。光が眼に見えない代りに、眼に色彩を見せるように、
灰色の階調は透明性を視覚にもたらすのだ。同様に、我々が赤と緑を区別し、赤色、緑色を別の色として見ることが出来るのは、
それ自体として不可視な中間色、すなわち赤緑・緑赤-無論、こんな色彩は現実にはない-のおかげである。色盲の人にかけているのはまさに、
この中間色なのである。たしかに「色についての考察」という断片的な書物から、
統一的なヴィトゲンシュタインの主張というものを導くのは困難である。しかし、私は、結局彼が言いたかったことは、
色彩というものの視覚自体に対する外部性ではないか、つまり色とは眼に見えないものなのだ、ということではないかと思っている。


不可視性としての色彩、中間に生じるものとしての色彩、という考え方は、音楽を例にとれば最もはっきりするだろう。
音楽を聴くと言うとき、我々は音と音の関係を聴取しているのであって、音を聴いているわけではない。従って、それ自体としてある音の色、
つまり音色という考え方は最初から妥当性を持っていない。


様々な音色の多くの楽器を使ったからといって、ある楽曲が「色彩豊か」になるわけではない。そうではなくて、
音の関連性=調性ももつ色彩というものがある。同じメロディでも、
ハ長調で奏でられるときと嬰ハ長調で演奏されるのでは色彩感が異なっている。しかしここから、例えばハ長調は赤、嬰ハ長調はオレンジ色・・・
と対応させるのは滑稽である、何故なら、それでは音色と同じことになってしまうだろう。実際、調性の色彩感を我々が感じるのは、
転調の瞬間だけである。クロマティック=半音階、あるいはメシアンやリゲティの曲から発生して来る疑似調性の色彩感は、頻繁な転調、
ないし疑似転調による万華鏡のような効果に他ならない。異なる二つの調性、二つの異なる関係性の間で生じるものとして、この色彩感は、
聴覚の外にあると言わねばならない。何故なら、我々の耳が聴取するものは、それぞれの関係システムのみだからである。


色彩とは不可視である。ヴィトゲンシュタインにとって、写真の色彩とは不透明なグレイスケールに転写されたメタリックな光沢と、
ブロンドの髪のことであった。絵画における不可視性が「色=色彩」ならば、写真における不可視性は「光=灰色」である。そして色彩の本質、
それは色調ではなく転調なのである。


(「不可視性としての写真」 2.表層-色彩に関するノート 清水穣)



2007/03/16

不可視性としての写真 写真のレフェラン(2)

クロマトグラフィーというものがあるが、それで例えてみよう。紙に付けられた黒いインクの1滴が、レフェランである。
溶媒によってこの黒い滴から、様々な色彩が展開する。この展開された色彩が、写真性である。そして、これらの色彩を展開した黒色が、
写真である。最初の1滴=レフェランと最後の黒色=写真は同じものではないか、という疑問がわくだろう。勿論同じである、
内在しているのだから。しかし、表現としてのインク1滴と、様々な色彩を展開する=表現するものとしての黒色は別のものである。


写真の位置は、見えることと見えないことの境界であった。それは視覚領野を外側から構造付けている、ア・
プリオリな他者とも言い換えられた。この構造としての写真の特質は、可能性と対立するものとしての潜在性であった。問題は、
この構造としての写真のあり方である。それはレフェランの中の内在であり、それと独立には構造は存在し得ないものである。
さらに内在は配分的である。つまり、視覚構造としてのカメラ・アイは1つ1つのレフェランに配分されてしまうのである。


ここで注意しなければならないことは、1つ1つのレフェランが、モナドのように同じ一つの構造を表現している、
と言っているのではない(それでは、構造はレフェランから独立した別の全体性を持つことになるだろう)。むしろ、配分の結果、カメラ・
アイはそれぞれのレフェランの中へ解消してしまう、と言って良い。写真の解像度はここにある。


「構造」を「生命」と置き換え見ると、はっきりするかもしれない。「生命」は明示的には規定できないが、生物の中に「内在」する。
ここで、生物に対する見方をどんどんミクロのレベルへ下げ(解像度を上げる)、分子、原子レベルまで下げていく。すると、「生命」
は最早消滅してしまったことに気がつくだろう。我々が見るものは生も死もない粒子の結合と分離だけである。写真作品で起こっていることは、
従って、視覚構造のこの解消=解像(resolution)であり、同時にベンヤミンにとってもそうであったように、写真の奇跡は、
見えないものが写るということである。見えていなかったものが写っているといっているのではない、写っているのだが見えないのである。勿論、
我々は雲というレフェランを見ることが出来る。


だから、「雲の写真だ」などと言うし、「強大な風」、本質としてのレフェランは視覚の外にある。写真の本質にあるものは、
この写真的不可視なのだ。


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅳ.写真のレフェラン 清水穣)



不可視性としての写真 写真のレフェラン(1)

Ⅳ.写真のレフェラン


しかし、最終的に写真は現象学的なものでも、精神分析的なものでもないだろう。写真とは「何か」の写真である-この「何か」
が今問われなければならない。既に注意したように、この「何か」は写された個物、対象ではない。それは写真の本質としてのレフェランである。
そして概念の捉えがたさは、写真がレフェランに「内在」する(逆ではない)、と言うところから由来する。


構造、神はすべて「内在」するものである。つまり、構造内部の各項、個別に使用されるルール、被造物と存在者の外に、
それらを超越したものとして「外在」するのではなく、それら以外の所には存在しない=それらに内在する。


内在と聞くと普通、我々は集合、つまり包含関係を考える。例えば、「太郎」という一人の人間は「人間」という上位集団に含まれ、
人間は動物に、動物は生物に、生物は被造物に、被造物は存在に、存在は神に含まれる、と考えられるだろう。つまり「万物は私(=神)
の内にある」。この時、神は完全に超越者・超越として、外在していることは明らかである。この位階を転倒させよう。すると、
太郎という一人の人間の中に上位集合のすべてが包摂される。「私は万物の内にある」。


しかし、以上の2通りともに間違いであり、内在ではない。「しかも、万物は私の内に存しない。・・・・・・
私の本性は万物を支え万物を実現するが、万物の内には存しない。至る所に行きわたる強大な風がエーテルの中にあるように、
同様に万物は私の内にある、と理解せよ。」エーテルは強大な風に「内在する」-すなわちここで退けられているのは、私が全てを含むとか、
全てが私を含むとかいった考え方である。私はエーテルのように全てに浸透し、その意味で、全てに内在しているが、
その全ては強大な風としていたるところに行き渡るのであるから、私が「内在」するのは、何等かの実体の内においてではない。包含関係を離れ、
「強大な風」とエーテルの一種の浸透関係(?)を考えねばならない。ここが恐らく最も微妙な点、
哲学者の名前で言えばハイデガーとヴィトゲンシュタインを分かつ点なのである。


存在は、存在者に内在するのではなく、個々の存在者の生き方、その様々な場面に内在する。このように、写真は写真に写されたもの、
写真のレフェランに内在している。写真とは、写真に写されたものの、ひとつの特徴的な変様態だといっても良いかもしれない。「要するに、
構造としての他者とは、ある潜在的な世界の表現であり、それを表現するものの外にはまだ存在しないものとして理解された、
表現されたものである。」


そして、このとき、我々はスティーグリッツのあのエクイヴァレントという概念の現在的な理解に近づいているのだ。
写真のレフェランとは、写真という記号が我々にふるう力の精神的等価物であって、それは写真に写っている対象の真実でもなく、
写真を見て感じる我々の心理や感情とは無関係である。雲は写真の本質=レフェランとしての雲であって、その限りで「等価物」である。
写真家スティーグリッツの感情や知覚の等価物ではない(実際、それ程退屈な解釈があるだろうか)。

雲は私の感情を象徴しているのではなく、写真の本質の表現である。写真は、雲の中に内在し、写真の本質を表現している。


これはどう言っても考えにくい事柄だと思うので、もう少し敷衍しよう。


まず、我々がある(写真の)表現を受容する時、そこには表現、表現するもの、表現されるもの、の3つが存在する。
今まで論じてきた用語を使えば、表現はレフェランであり、表現するものは視覚領野の構造としての写真であり、表現されているものは、
写真性である。そして、表現されているものも、表現するものも、表現の中に内在する。この結果、
現実として我々に与えられているものすなわち、我々が見るものは、表現としてのレフェランだけであり、それ以外の場所には、
写真も写真性も存在しない。だから、用語として、これら3つを同様に用いることも可能なのである。それらはいわば、3連星であって、
3つは互いに区別されるが、同じ名前で呼ばれるようなものである。この3連星が放つ光が、いわば写真的不可視という写真の質である。


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅳ.写真のレフェラン 清水穣)



2007/03/14

清水穣著『不可視性としての写真』(著者インタヴュー)











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清水穣著『不可視性としての写真』(著者インタヴュー)

(『アサヒカメラ』1995年11月号、朝日新聞社刊)


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写真評論、研究論文などを対象とする「重森弘淹写真評論賞」の第1回受賞作となった
「The photographic Invisible――写真と不可視性」のなかで著者の清水穣氏は明快に言う。
写真とは表象を持たずにレフェラン(指示対象)
だけを持つ特殊な記号である。記号としての写真は、リアリズムともドキュメントとも関係なく、
心理とも記憶とも関係がない。写真は、「撮るもの」からも「撮られたもの」からも独立している。
これが私たちの出発点だ、 と。

 「僕の場合は、
写真というメディアというよりも写真がもたらした一種の認識論的切断というものに関心があったんですね。
それ自身の対象を持たないがゆえに可能な衝撃力、そういうものを理論的に詰めていかなければいけない、と。
それを押さえずにはそもそも論が立てられないし、印象批評になっちゃう。
僕にはとりあえず感情移入するという能力がなくて(笑)


 この受賞論文は、J.ウェリングの個展のさいに出版されたテクストを新たに書き改めたものだ。

 「ウェリングは、自分の持っているイメージを意匠として形にしたり、写真を単なる技法とするのではなく、
〈写真を撮る〉 ということについての思考、
つまり現実の薄皮を剥ぎ取ってフィルムに定着させることの意味を考えながらそれを制作に結びつけていく。
その作品について書くのだとすれば、写真を撮る行為そのものから論じ始めなければならない。

 それから、とくにベンヤミンが典型的なんだけれども、アウラの記号論みたいな、
記号の持っている意味というものをひとつの巨大な外部性みたいなものに措いておく。それに対しての決断、
というか切断がベンヤミンの思考のなかにあったと思うんですね。そういうところをフォローしたかった」

 そうした理論的作業のかたわら、「海外の理論や文化を輸入することも必要だけれども、
例えば長船恒利みたいにトーマス・ シュトゥルートみたいな作業を同時代に、
しかも数年早くやっている作家もいるでしょう。 そういう作家を紹介していくことも必要」と語る。

 インターネットでの情報流通の状況の話題では、いくつかのホームページに触れながら、その問題点を指摘する。
さまざまなかたちでの実践的なコミュニケーションの方法論を探る様子が印象的だった。
脱領域的な活動を期待させる一人だろう。




2007/03/13

不可視性としての写真 写真の時間性

Ⅲ.写真の時間性


Ⅰ.でみたように、写真の表層的な性質は、常に何かの写真である、ということであって、写真という空虚な場に、何かが写される
(あるいは写されない)わけではない。言い換えれば写真はこの、空虚な場所という概念を、無と真空を拒む。


ところで、空間とは対象と別の対象の間の置換可能性によって産み出される空虚な場所のことであるから、写真には空間性はない。
写真には、置換可能性な時間性だけが存在するのだ。この時間性とはどのようなものだろうか。


まず写真の時間性は、決定的瞬間のことではない。Ⅰ.で論じたように写真は、事物の世界の流れから、決定的な瞬間を切り取ったりする、
そういう前提を現象学的に還元するところに成立したものなのだから、何も「瞬間を止めて」いるわけではない。


フッサールが「自然な考え方のテーゼ」とよび、多くの写真論がおかしている誤りは、
同時にまた伝統的な認識論が犯してきた過ちでもある。上述の「他者」の効果について、ドゥルーズは以下のように論じている。


「ここから、他者は、私の意識を、必然的に半過去へ、もはや客体とは一致しない一つの過去へと傾斜させる。他者が現れないうちは、
例えば一つの安心出来る世界が在って、そこから私の意識は区別されていなかった。他者は恐ろしい世界の可能性を表現しながら現れるが、
その世界は、それに先行する世界(安心できる世界=私 M.S)を過ぎ去られることなしには、展開しない。私とは、
過ぎ去った私の客体に他ならず、私の自我とは過ぎ去った世界、まさしく他者が過ぎ去らせた世界でのみできているのだ。他者が可能な世界なら、
私は過ぎ去った世界である。そして認識論の全ての誤りは、一方が他方の消滅によってのみ構成されるのに、
主体と客体の同時性を要請することである・・・・・・こうして他者は意識とその客体の分離を、時間的な分離として保証している。


他者の現前の第1の効果は空間としての知覚の諸カテゴリーの配分に関わっていた。しかし他者の現前の第2の効果、恐らくはより深い効果は、
時間と、その諸次元、つまり時間の中で先行するものと後に続くものの配分にかかわっている。」


少し長くなったが、要はこういうことである。現象学的還元によって、見る私と見られる世界は一つになった。写真は見ている眼として、
この世界=私を、視覚領野を構造付けているア・プリオリな他者であった。しかし、その時、私と世界はどのように発生して来るのだろうか?
他者は時間軸に沿って、過去と未来へ同時に私と世界を分割生成するのである。写真は、時間軸に沿って、見る私を過去へ、
見られる私を未来へ絶えず分割し続ける。バルトのca-a-ete(「それはかつてあった」)とは、このことに他ならない。
つまり実はca-a-eteであるのは写真を見る私である。他者が過去にしていった世界で出来ている私なのである。


ところで、構造としてのア・プリオリな他者は、私=世界にとっての絶対的外部であるから、ア・プリオリな他者が、
絶えず私と世界を分裂生成する現在という時間は意識には決して現前しない。そして、
写真の時間性はバルトの言うようなca-a-eteではなく、この決して現前しない現在である。それは、
現在時制おける記号の存在とでも言えるものである。そのような、時間の流れの外にある時間性をクセナキスの用語を借りて「外・時間
(hors-temps)」と呼んでおこう。

ここでも潜在的なものと可能的なものの区別は有効である。ベルクソンにとって即時的な過去とは、
かつて現在であったが時が過ぎて過去になったような時間性ではなく(それは可能的な過去である)、時の流れと無関係に実在する、
潜在的な時間性であった。この即自的な過去とは、従って、すべての時制に「浸透し」「織り込まれ」ているのである。写真の時間性は、
まさにこの即時的な過去であり、決して現前することのない現在である。


けれども、この「外・時間(hors-temps)」に我々が常に遅れて到達することは本当である。あるいはca-a-eteとは、
この時間的遅延に、そして記号と遭遇したときの引き裂かれるような感覚に、バルトが与えた名前なのかもしれない。


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅲ.写真の時間性 清水穣)



2007/03/11

不可視性としての写真 視覚的無意識(2)

「無意識に浸透された/無意識が織り込まれた空間(ein unbewuβt durchwirkter Raun)」-たとえば、
最も初期のテクノロジーであるピンホールカメラを考えてみる。ピンホールカメラで撮影された被写体は一様に奇妙な密度を帯びている。
19世紀の人々を魅了し、あるいは嫌悪させたこの不思議な密度はどこからやって来るのだろうか。


それは、カメラの技術的な原理とは逆に、写真映像というものが基本的に眼を閉ざした知覚の産物ということである。
対象があって見るのではなく、そこでは視覚は対象物に先行し、自律的なのだ。あの奇妙な密度は、
自律的な視覚から産み出される夢の中の光景に固有の輝きであり、J・クレイリーの言うようなカメラ・
オブスキュラからの切断をそこで確認することが出来る。

Ⅰ章で論じたように、カメラ・アイが写している(視覚)構造は、視覚領野に属さないで、その領野を構造付けている、膜のような存在である。
視覚構造、という言葉を意識の構造で置き換えればわかるように、当然、写真には無意識という意識構造が写し出されることとなる。
問題は視覚領野にそれ自体として無意識の部分がありうるか、ということではなく、構造=無意識という概念の理解、つまり潜在性なのである。
言い換えれば次のように問うことは誤りである:自律的な視覚領野の内、どの部分が意識されており、どの部分に無意識が在るのか、と。


ア・プリオリな他者として、視覚を構造付けているカメラ・アイは、視覚しうるもの全ての外部にあり、
無意識とは上記のように意識しうるもの全ての外部にある。視覚的無意識とは、この、すべての可能性の外部にある潜在性を意味する。おそらく、
ベンヤミンが、そこで、高速度写真を例としてあげたのは今から見れば、当然のように犯されてしまった間違いであった。

なぜなら、当時初めて、人間はコンマ0何秒という世界を発見したからである。ベンヤミンにとって、それは事実上、
見えるもの全ての外にあったのだ。けれども、もしそれが視覚的無意識であるならば、現在の我々は視覚的無意識を持たないと言わねばなるまい。


一粒の水滴がどのように水面に砕けるか、高速で動く車がどのようにクラッシュするのか、人間の筋肉が走るときどのように躍動するか・・・・・
・人間の眼が捉え得ず、カメラだけがもたらしうる映像など、現在の我々にとっては視覚しうるものの極めて日常的な一部である。
かつて意識されず、見えていなかったものが、冷徹なカメラ・アイによって今、写真として現前している、意識の連続性、我々の鏡は砕け散り、
アウラも消滅した-このわかりやすさとは逆に、ベンヤミンのテキストが何か不透明に感じられるのは、カメラによって剥き出しにされる「現実」
とベンヤミンが呼ぶものが、現在の我々には単なる日常(そこにはアウラも別に欠けてはいないだろう)だからである。


ベンヤミンにとって写真は、精神分析にとっての錯誤行為のように、ルドルフ・カスナーにとっての「顔」のように、「徴候」である。
山なみや、影を落とす枝の写真も、当然徴候である(だから、視覚的無意識に侵されている)。徴候は、表象ではない。視覚的無意識は、
写真という徴候の中に織り込まれている/浸透しているので、山なみを眺め、枝の葉ずれを眺める中間的な距離はそこでは不可能である。


後に詳しく見るように、徴候の中に織り込まれている象徴的なものは、徴候に内在するのであり、徴候の外に、徴候から離れた「意味されるもの」
としては、実在しない。

この意味でのみ、アウラの消失とは、「遠さの1回限りの比類なき顕れ」の喪失、距離の喪失なのである。


写真とは、視覚的無意識が写し出されている。それは、写真の潜在的な質として、決して意識され得ず、見られ得ないものとして、
写されているのである。

これが、私が写真的不可視(the photographic invisible)よ呼びたいものである。


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅱ.視覚的無意識 清水穣)



不可視性としての写真 視覚的無意識(1)

Ⅱ.視覚的無意識


それならば、カメラ・アイは、構造としての無意識を写しだす、と言うことなのだろうか?

「事実、カメラに語りかける自然は、眼に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ、人間の意識に浸透された空間の代りに、
無意識に浸透された空間が現出するところにある。」


無意識(Unconscious)は潜在意識(Subconscious)のことではない。つまり、今は意識の表層に現れていないが、
いつか現れうる、隠れている意識、潜行している意識のことではない。用語が交差するので混乱しないようにしたい。可能的なもの(the
possible)/潜在的なもの(the virtual)の区別が問題なのだ。潜在意識は可能的であり、無意識とは潜在的なものである。
潜在的なものとしての無意識は決して意識に現れることはない。それはすべての思考可能なものの外部である。この意味において、
無意識は意識の構造なのである。そのようなものは定義上考えることは出来ないから、内側から境界画定する他はない。
ベルグソンの言い方を借りれば、可能的なものは現実的(actual)ではあるが、実在的(reel)ではなく、
潜在的なものは実在的であるが、現実的ではない。


ベンヤミンが発見したものは、写真を撮られたときには意識されていなかったが、
写真を見ている今は意識できるような潜在意識の領域ではなく、意識可能なものの絶対的外部としての潜在的な質であり、
それこそ彼は視覚的無意識と名付けた。


ただし、この区分は彼にとっても曖昧なものであった。何故なら、写真は彼にとって、記号論なものであると同時に、
複製技術と高速度シャッターによって切り拓かれた未知の世界をも意味し、また「本物」による芸術を、
大量生産される複製による空想の美術館へと変容させてしまう社会的機能をも担っていたからである。この曖昧さは有名な「アウラ」
の概念にもその影を落としている。複製技術によって、オリジナルが持っていたアウラが雲散霧散してしまった、芸術の受容は、
複製の受容に先立たれ、複製の反射を受けて成立するようになった・・・・・・という判りやすいストーリーを語る闘争的なベンヤミンとは別に、
アウラとは「それがどんなに近くにあろうとも、我々は自然対象のアウラを、ある遠さの1回限りの比類なき顕れと定義する。ある夏の午後、
横になりながら、地平線の連なる山なみや、自分に影を落とす枝の動きを追うこと、これがその山なみや枝のアウラを呼吸することである。」
 これのどこが定義なのだろうか。なによりも、この文章からは、例えこの山なみや枝の写真が何万枚複製されようと、
それらのアウラが消えるとは思えないのである。影を落とす枝の写真にも、無意識に浸透された空間が顕れているのか?


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅱ.視覚的無意識 清水穣)



2007/03/08

不可視性としての写真 「Photography "of"-」

1.写真の本質

Ⅰ.Photography "of"-


写真という言葉は、記号の1つの特殊な様態を意味するものとする。それを写真性と呼ぶならば、写真性を持ったものは全て写真である。
カメラとレンズ、焼き付け、機械性、複製可能性、オートマティスムと芸術論争、リアリズム、ストレート・
フォトグラフィーとピクトリアリズム、証拠写真・ドキュメンタリー・・・によって条件づけられた表現形式として、我々は写真を理解しない。
それこそが、多くの混乱や誤謬の原因なのだ。印画紙に写されたからといって、写真ではない。
キャンバスに描かれているからといって絵画ではない。カメラと焼き付け技術によって、写真が歴史上に登上し、普及していったのは事実である。
しかし写真性にとって、カメラは二次的な装置である。写真性というのは汎歴史的なものであり、アレゴリー、顔、
ヒエログリフは既に写真であった。それを踏えて、「写真」の衝撃というものがどのようなものだったのか、今一度辿りなおして見たい。


上に述べたように、写真の本質は極めて単純である:写真とは常に既に「何かの」写真である。この言い方に聞き覚えはないだろうか?
フッサールは彼の指向性という概念を、意識が常に既に《何かの意識》であること、と述べている。この、一見しごく当然の言い方によって、
しかしながら「意識の場」(意識領野)という考え方が静かにとどめを刺されている。すなわち、ヒュームも言ったように、自己、
あるいは精神とは、精神内の印象、つまり普通我々が対象と言っているもの、と同じであり、精神という「場」
に対象が表われたり消えたりするのではない。意識は全く一層的である、つまり、その裏に何も隠してはいない。
意識の諸対象は決して表象ではないのだ。写真の衝撃とは、現象学的還元のそれと同質である。つまり、写真が実行することは、「世界と私」
に対するエポケーなのである。それは「私とそのまわりの世界」という自然な考え方を失効させる。写真は常に「何か」の写真である。と聞くと、
通常我々はカメラ・オプスキュラにならって、写真機の外側にその「何か」を想定し、それが印画紙に写される、と考える。しかし、写真とは、
写真内の対象と同じであり、印画紙というフィールドに何かが写ったり写らなかったりするのではないのだ。


さて、その結果、世界と自己は1つである。写真とは、
ある自我=主体が自分のおかれている世界をありのままに撮影するなどということではなく(それなら単なるリアリズムに過ぎない)、
そのような主客分離に先立つ世界の有り様を写し取ることなのだ。つまり、そこでは自己とか世界といった言葉は何の意味もなさず、
また世界と自己は同時には存在しない。あなたがいて、世界が在って、それをあなたが見ている、のではなく、
あなたとはあなたが見ている世界である。


さて、私とは私の見ている世界であるとするなら、そのような私=主体とは何か。「主体は世界に属するものではない。
それは世界の境界である。」


「主体」は、あれやこれの「私」つまり「心理的自我」のことではない。「主体」は、
世界という関数をその外側から規定するものとして要請されているのであり、世界に「構造」をあたえるものである。
世界の構造をその外側から膜のように規定している1つの限界概念、「主体」。ドゥルーズはこの「主体」を「ア・プリオリな他者」
と呼んで次のように述べる。

「他者は知覚領野の総体を条件づけている構造であり、この総体の機能である。知覚を可能にするものは自我ではなく、構造としての他者である。


「(他者は)まず第1に知覚領野の構造であって、それがなければ、この知覚領野が総体として適切に機能しなくなるであろうな、構造である。」


別の言い方をヴィトゲンシュタインにならってすると、視界=みられている世界の「構造」とは「見ている眼」である。それは、
視界で唯一見られないもの、穴となっている点である。従って、この点に関しては世界というシステムは無効であり、この点は、
構造づけているものとして、構造づけられているシステム内の論理を越えているのだ。この「見ている眼」こそカメラ・アイである。


一見単純な前提から、我々はまず2つのことを得た。写真の衝撃が、それまでの認識論的前提を、現象学的の失効させたこと、そして「ア・
プリオリな他者」を我々に発見させたということである。


(「不可視性としての写真」 1.写真の本質 Ⅰ.Photography "of"- 清水穣)



批評の不在、写真の過剰


批評の不在、わかりすぎるのでわからない写真の過剰、それは、同じ様な問題を抱えつつアメリカの1960年代に生じ、
日本では1970年代に反復されたことである。マイ・フォトグラフィティ、マイ・ライフ、すなわち「私」の写真、「生きている」私の
「リアリティ」の問題。端的に言って「女の子写真」とは、1990年代の「コンポラ」写真なのだ。つまり、
90年代後半以降の写真をめぐる状況は、70年代に日本に生じた反復の、子供世代の反復である。批評不在のスナップ写真の隆盛に、
「リアリティ」と「私」の問題が絡む構図。実際、すでに70年代初頭にも癒し系で日常派の「私」写真は数多く存在したし、
引きこもりならぬ「内向の世代」が論じられた時代でもあった。しかし四半世紀を経て、当然ながら新しい外的状況が加わっている。



1966年ニューヨークで開催された<コンテンポラリー・フォトグラフィー-ある社会的風景に向かって>展は日本に紹介されて、
いわゆる「コンポラ」写真の語源となった展覧会である。そこで展示された作家達によって「スナップ写真の美学」が表面化し、同時に
「違いがわからない」という冒頭の疑問が初めて意識されたのであった。例えば1969年から撮り始められ77年に出版されたギャリー・
ウィノグランドの傑作「Public Relations」について、当時すでに「写真エージェンシーのボツ箱の中には、
これよりもっと優れた写真がいくつもあった」、「非常に複雑な主題に対して、最も陳腐で浅薄な自明性だけを表現する生煮えのシリーズ」、
「基本的にどの写真も同じに見える」といった批判が出た。現在の我々にもおなじみの批判である。



周知のように彼の世代はロバート・フランク「アメリカ人」の大きな影響下に出発した。作家個人の「私」の生、「社会」から落ちこぼれた
「個」の実在によって支えられるオルターナティヴなリアリティを教えられた一群の若い写真家達が、
美しいプリントに代表される芸術写真のプロフェショナリズムと、
大上段に¥の政治に基づいたフォトジャーナリズムの両方に背を向けたその1960年代の状況を「世界は写真だ」と言い表せるだろう。
完全に写真的な現実のなかで、写真のリアリティはなんでありうるか?



フランクの世代と異なり、「コンテンポラリー・フォトグラフィー」たちは、「私」にリアリティを求めることも出来ず、
テレビによって完全に斜陽化していた「写真」にもリアリティを求められなかった。
ウィノグランドにとって1962年のキューバ危機は転機となった。「その時点で、俺には自分がnothingであることがわかった。
それは解放だった。俺はnothingだったんだ」。かつて柄峪行人は同時代の批評の中で「内向の世代」にふれ、
豊かな内面をもたないからこそ内向するのであり、内向の果てに自己は内破され、そこに社会との接点、
すなわち構造的なものが見いだされると論じ、由井由吉の初期作品において、
小説における言語使用にそれが一つの切断をもたらしたことを指摘した。コンテンポラリー・フォトグラフィーとは、
写真におけるその様な切断である。自己の空虚を突き抜けたウィノグランドが写真を通じて見いだすものも構造的なものであって、
それは超越的に存在するような社会構造ではなく、人間と人間の偶然の付置によって生起するような構造である。「写真はいつも戸外にある。
それは自分の外へ出る方法だ」



(「白と黒で」 批評の不在、写真の過剰 清水穣)



不可視性としての写真 序

THE PHOTOGRAPHIC INVISIBLE

=JAMES WELLING=

不可視性としての写真

=ジェームズ・ウェリング=

清水穣

WAKO WORKS OF ART

1995年4月15日 発行


かつて写真は、我々の意識の非連続性と間欠性を教え、視覚的無意識(das Optish-Unbewuβte、ベンヤミン)
を写し出すテクノロジーであり、言い換えれば、意識には現在という時間がない事実を、1つの過去として提示する道具であった。
写真論が見損なっているか、あるいは当たり前なので殆ど触れられることのない、写真の本質は、一見実にシンプルである。それは、
写真は常に既に「何かの」写真である、ということにすぎない。


しかし、この命題を正確に理解した上で芸術としての写真を考慮すれば、写真とは表象(Representation)を持たずに、
レフェラン(Referent・指示対象)だけを持つ特殊な記号だ、というところへ至る。ドゥルーズならばシーニュと呼ぶであろう、
記号としての写真は、リアリズムともドキュメントとも関係なく、心理とも記憶とも関係がない。これが我々の出発点である。


つまり、写真は、「撮るもの」からも「撮られるもの」からも独立しているということ、この点において、
そしてレフェランという概念のもたらす眩暈と引き換えに、多くの不毛な議論は回避されるであろう。それと同時に、
読者には一見奇妙に思われるかもしれない転倒した見方がいくつか提示されるだろう。しかしそれは、
むしろこれまでの写真の理解が転倒しているか、誤った前提から出発していることを示すのである。


多くの写真論においては、本質的な写真性の問題が、いつも写真史やリアリズム、表象や引用の問題にすりかえられているように思う。
私が明確にしたいと願っていることは、その混乱がなぜ生じるかと言うこと、そして、現代のある種の写真が私を惹きつけるならば、
その惹きつけている力はどこから発しているのか、ということである。


ここで現代の写真と言う時、それは専らベッヒャー以降の写真芸術をさしている。例えば、トーマス・ルフの巨大な人物写真を前にして、
私は一種途方に暮れてしまう。その巨大さは大きさからして、それは人物の肖像写真では有り得ないが、では何なのか。


ビュスタモントの風景写真はもっと寡黙であって、そこでは凡そ風景写真にあるべき全ての美的要素が排されている為に、
作品には異様な空気感が漂っている。何も写っていないというこの衝撃、これは何なのだろうか。おそらく、後述するように、
それはもっと一般的な問題であり、芸術の記号の存在論にかかっている。


しかし写真という芸術には、独特の困難さを伴いつつ、その集中的な表現が見られるのである。


まず第1章では写真の本質が、写真とは常に何かの写真である、という上に述べた簡単な前提から出発して考察される。写真論はまず、
現象学と精神分析(写真技術の帰結とも見なせる2つの学問領域)の間に位置付けられるが、可能性と潜在性の区別、
そして構造の内在という概念において、そこから決定的に離れ、最後にその「何か」=写真のレフェランの本質規定へ至る。特に、
視野領野の構造としての「カメラ・アイ」が、いわば1つ1つのレフェランの中へ解体=解像(auflosen/resolve)
していく第Ⅳ部は、いわば、現代の写真表現の基礎となるものと望んでいる。


第2章では写真と絵画をつなぐ要素として、「表層性」と「モンタージュ」が抽出され、
それらが色彩と本質的な関係にあることが考察される。


第3章は、現代の写真表現を、特にジャン=マルク・ビュスタモントを例に論じ、1章を振り返りつつ、「写真的不可視」
の写真への顕れかた、つまり写真の現代性のありかを結論として論じる。


この小さな写真論は、ジェームズ・ウェリング論ではない。むしろ、ウェリングという、一見作風を次々と変化させながら、
写真性についての本質的理解という点では全く首尾一貫している作家の固有名を確定記述しようとするものである。従って、
以下の文中でウェリングの名前は最後に至るまで登場しないだろう。


(「不可視性としての写真」 序 清水穣 WAKO WORKS OF ART)



2007/03/04

「裸」というイデオロギー

「裸」は近代のもっとも強力なイデオロギーの一つである。たとえば、すでに(あるいは初めから)「個」
など解消しきっている日常を生きている我々にとって「個の解体、個性の超克」と叫ぶ者こそもっとも「個」にとらわれているように見え、
またほとんどの人間は「詩」になぞ関心がないのだから「ポエジーを握りつぶせ!」と命令する者がいちばん詩人めいて見えるわけだが、
このような、どこかマッチョで英雄的な叫びにいま少し真面目に耳を傾ければそれらは。「個」や「ポエジー」
の存在が障碍となって何かリアルなものが出現しない、だから個性や詩を取り除け、殺せ、と訴えているのだとわかる。


そしてこの「なにかリアルなもの」こそ「裸」ということにほかならない。曰く、裸の、剥き出しの現実、ものそれ自体、裸の言葉、
ありのままの世界へ向けて己を曝せ・・・・・・。「裸の世界」とは、意味づけの彼方、文化的システムの外部であり、
システムに回収されえない場所、日常と非日常の彼方のことである。「単々とした日常」あるいは「白日の下の意味の墓場」をまえに、
呆然と目を見開いて立ちつくす、これこそが近代のセンチメンタルなのだ。それは湿っぽい叙情を憎み、その絶対的不在=「砂漠」を目指す。


そこは「私」と発語する人間が蒸発した、空虚で非人称の場所である。「裸」のセンチメンタリズムは「砂漠」のそれだ。
雑草のようにはびこる意味と無意味を焼き尽くし、システムの内部を滑らかに流通するだけの生の彼方、砂漠を目指さねばならぬ。


(「白と黒で」 砂漠よさようなら 清水穣 現代思潮新社)


コメント:例外的にコメントを付す。この引用した文章の文体そのものに時代の流れを感じる。しかし本文の初出は2003年4月とある。
約4年前はこのような単語を使っての文体がまかり通る時代だったのだろうか。おそらく全てが意図的なのだろう。
しかしこの文体そのものに森山大道の写真の世界観が、無論清水穣氏にとっての、封じ込め込められているように思え、
内容そのものよりも興味を抱かせる。(Amehare)



2007/03/03

写真の「リアル」

他者なるもの、彼岸なるものへ向かって自我、主観を投企すること。それによる絶対的他者としての、事物の世界「Die Dinge」
の出現。「けんらんたる白日の下の事物の存在」(「なぜ、植物図鑑か」24頁)。つまり中平卓馬は新即物主義を再発見しているのだ。


先に述べたように、このような絶対的他者は存在しないと言うのがベンヤミンの批判であり写真論だった。他者や世界というのは常に、
私が想定する絶対的他者や世界を無効化するものである。私を空にしていけば、あるがままの世界が立ち現れるというのではない。写真の
「リアル」とは、私と、私が想定している「あるがままの世界」の両方を消去してしまうのであり、この消去そのものなのだ。コマ落とし、
再撮影、印刷写真の写真など、写されたものが「写真」であること、ビラのような印刷写真であることを強調して倦まない「写真よさようなら」
は、「なぜ植物図鑑か」の批判の書である。世界は写真で出来ていて、世界には写真しかないという事態、だから、
何も写真以外のところへリアリティを求めなくてもよいのだという自由が、本人にも信じられないまま非常な切迫感とともに表出される。
そこでは森山大道が信じてきた「あるがままの世界」が、彼自身の写真の力によって崩壊し雲散霧散していくさま、
すなわち写真的リアリティそのものが定義されている。


(「白と黒で」 清水穣 現代思潮新社)



新即物主義の核心

「世界は美しい」という有名なタイトルは、それが「Die Dinge(事物)」
という作家の本来のタイトルが出版者によって付け替えられたことを度外視しても、
新しいアングルと新しい視覚的効果によって世界の新しい美を発見する楽観主義ではない。それは別の読み方を要求している。


もし世界が、つまり世界に存在するすべての事物が美しいのなら、自動的に「美しい」という概念にはもはや何の意味もない。
すべてが美しいのだから、何かを美しいと呼ぶことは無意味である。「世界は美しい」という表現は美そのものの概念を解体し、
あとに残るのは美醜の彼方の世界、創造的でも凡庸でもないただの世界、純粋に「あるがままの世界」である-これこそ、
新即物主義の核心だった。


だから、ベンヤミンの批判点はまさにここへ向けられている。「あるがままの世界」などいうものこそ、レンガー=パチュの「創造」
である、と。「あるがままの世界」、それは芸術的表現に関わることなく、いかなる人間的、文化的、社会的諸関係にも影響されず、
のっぺらぼうで無言のまま写真家の前に存在する、完全に中立的な無機的世界であろう。「レンズの役目は<概観>することにあるとされ」、
写真家はそのときの世界の傍観者であることしか出来ず、その中立的存在を受け入れるしかできない。これに対して、
ベンヤミンは否を突きつける。「あるがままの世界」など存在しない。それこそフィクションであって、保守反動のイデオロギーなのだ。
写真のリアリズムは「あるがままの世界」にはない、と。


(「白と黒で」 清水穣 現代思潮新社)



2007/03/01

ベッヒャー論への難しさ

写真はレフェラン(指向対象)の芸術である。しかし、写真論の困難は、レフェランを純粋にそれだけで論じることの困難でもある。
我々はかならず、写された世界を論じるか、写真の写し方を論じてしまうのだ。ベッヒャー・シューレについて語る困難もそれと同様である。
人は世界各地の給水塔を論じ、重化学社会の歴史を論じてしまう。あるいは「主眼を廃した客観的な方法論」を論じ、
新即物主義とのつながりを見て、タイポロジーの系譜を辿ったりする。もし対象自体に意味があるのであれば、
それはドキュメンタリーにほかならない。もし対象は任意であり、写真のスタイルをも含めた意味でのタイポロジーが重要だというのであれば、
ベッヒャー・シューレは無限に増えるであろう。


(中略)


ベッヒャー論をさらに混乱させるのは、「対象の尊厳を十全に引き出すために、人為をミニマルに切り詰める」という類の言い回しである。
「何もしない、何も作らない」この方法論はドキュメンタリー写真「例えば写真集「ルール工業地帯」)に限りなく近い。これはゲージが
「音を音のままにしておく」と言う時に生じる誤解と同型だ。音を音のままにするために、何もしなければ。それは騒音になるだるだろう。
そして騒音もまた音楽の一つである。だから、音を音のままにするためには、何かしなければならない。つまり「何もしない」ためには、
厳密な秩序に従わなければならない(ゲージが用いた易教のように)。それがベッヒャーの場合タイポロジーであり、
彼らの不動のスタイルである。


ベッヒャーの作品は反ドキュメントである。ドキュメントとは、ある現実(と想定された)
状況についてのドキュメントであるからストーリー(説明文、報道記事)から自由でない。言い換えれば、写真に写された断片とは、
連続した現実の部分であるとされる(部分→全体)。しかしレフェランは何かの部分ではなく、完結している。何もしない、
とはモノをモノのまま完結させて写真を撮ること。モノをレフェランにすることである。だからレフェランは何もドキュメントしない。つまり、
厳密な秩序に従ったドキュメンタリーというのは存在しないのだ。


ベッヒャー・シューレを論じるにあたって、ベッヒャー的レフェランの特質はその政治性にあると私は考えている。もちろん、
直接彼らの作品に政治的なモティーフを探すというのはナンセンスである。しかし、芸術を政治から隔てようとする純粋主義(芸術のための芸術)
と、政治的な芸術(例えば政治的マイノリティの作品)に良心的な同意を贈る身ぶりは、同じヒステリーの表裏であり、それは、
芸術は政治的な主題(とは、たいていの場合全く政治的ではない)に従わなくとも本質的に政治的であること、それどころか、
最も非政治的なものこそ政治は宿っているのだ、ということを隠蔽する。戦後ドイツにおいて、最もこの抑圧が顕著なのが芸術(ファインアート)
の分野である。芸術は非政治的でなければならない。芸術を「政治的な芸術」のゲットーの外部で政治的に解釈すること、特に、
やっとドイツという壁を越えて国際的になった芸術に対してそうすることは不快であろう。それこそ政治の効果なのだ。
配線から復興した文化的国家として、首相は当然モーツァルトくらいはピアノで弾けなければならないし、
官僚の趣味も会議後のオペラでなければならない。彼らは「教養」の政治性を知悉しているからである。戦後の新生ドイツは、もはや「ドイツ」
ではなくなった国民としての同一性を芸術と文化に託した。それは立派な政府だったのである。今は削減の方向にあるとはいえ、文学、美術、
音楽への恵まれた公的助成は、戦後政治の一部である。芸術に国家予算をつぎ込むこと。それ自体は何ら批判すべきことではない。しかし、
スキャンダラスな言い方をすれば、それもまた西ドイツにおけるナチスの遺産なのである。


以下で述べるように、ベッヒャー・シューレを戦後ドイツという特定の政治的空間と切り離して考えることは不自然である。もちろん、
強調しておきたいが、それは不可能ではないし、本論で示される解釈はたんなる一解釈にすぎない。ただ、
ドイツという固有の文脈を消去したとき、それは抽象的な解釈ゲームになるだろう。


(「白と黒で 写真と・・・・・・」 清水穣 現代思潮新社)